五世紀の砂漠の祈り

イエズスの祈りの霊性の本当の始めは、したがって、4世紀よりも5世紀に求められなければならない。アンキュラの聖ニルス(430頃死去)は、その大部な書簡のなかで、イエズスのみ名の「喚呼」あるいは「想起」を唱道し、この祈りができるかぎり連続的なものとなることを要求している(Letters,ii.140,214;iii.273,278)。しかしこのことは、付随的に軽く触れられているに過ぎない。イエズスの祈りの歴史のなかでこれよりもはるかに重要なのは、北ギリシャのフォティケの司教、聖ディアドコス(5世紀後半)である。かれは、決定的な「触媒者」として振る舞う。かれの教えでは、悲痛(pe,nqoj)という第2の要素が取り立てて目立つというわけではない。しかしかれは、その他の三つの要素の明白な結びつきを確立し、イエズスのみ名の絶えざる反復を、まさに、集注した無形象の祈りに入るための手段として扱っているのである。ディアドコスは、エヴァグリオスの影響とマカリオスの講話(Macarian Homilies)の影響とを受けて、連綿と続く一連の東方キリスト教著作家たちのなかで、かれが初めて、この2人の人物に代表される相補的な「思潮」の総合を成し遂げたのであった。ディアドコスは、エヴァグリオスから、祈りを、なによりも「思いなしの除去」として理解することを受け継いだ。マカリオスの講話から、かれは、霊的感覚および感情と意識的体験の「情緒的な」強調を譲り受けた。もっともかれは、メッサリオスの極端な見解には、断固として反対した。

 

ディアドコスの教えによれば、堕落の結果として、人間の霊魂の「知覚」(perception)は、相反する2つの傾向に引き裂かれてしまった(Chpters 24-5)。そしてこの分裂は、意思(78:will)と記憶(88:memory)に影響を及ぼした。と同時に知性は、落ち着きのなさに悩まされ、「この知性の活動欲を満足させるに足るなんらかの勤め(occupation)を、否応無しにわれわれに要求してきたのである」(59)。われわれは一体どのようにして、われわれの内的な諸能力を一つにまとめ、それらを静かに落ち着かせるべきか。どのようにして、常に活動して止まない知性に、適切な業務を供すべきだろうか。ディアドコスは答える。意思は、(エヴァグリオスのいう意味での)「活動的な生活」の実践によって一つにまとめられるべきである、と。他方、記憶は、知性の「活動欲」を満たし、かつ、その断片化を克服するイエズスの「想起」(97)あるいは「喚呼」(85)によって、一つにまとめられる。「われわれは、知性に、『主イエズス・・・』という祈りの他に、なにものも与えるべきではない。知性をして、その内的な社の内側で、それがいかなる心的形象にも偏向しないほどの烈しさで、この祈りの語句に絶えず集注させておきなさい」(59)。ディアドコスはここで、イエズスのみ名の喚呼を無形象の祈りの達成に関連づけている。かれはたんに、幾人かの者たちが考えたような散漫な意味で、イエズスの「想起」あるいは「回想」(recollection)を思い描いていたのではなく、祈りの特別な定式による実際の喚呼を考えているように見える。たぶん「主イエズス・・・」という祈りの語句には、別の言葉も続いていたであろ。しかし、かりにそうであったとしても、かれはその後に続く言葉がなんであったかを、われわれに教えていない。

 

ディアドコスは、「『主イエズス』という祈りの他に、なにものも与えるべきではない」と、意味深いことをいっている。4世紀のエジプトに見出されたような片言定式の多様性は、いまや、あまり斑のない一様性を示すようになった。祈りの反復が、知性を断片化から統一へ、多様な思いなしと形象とから一点を目指す集注へと導くには、その反復が、次から次へと変わるようなものであってはならないのである。「主イエズス」の祈りそれ自体は言葉による喚呼であるが、その簡潔さと単純さのゆえに、われわれは、言語を超えて沈黙へ、散漫な思惟を超えて直観的な覚知(intuitive awareness)へと到ることができる。ディアドコスが述べるところによると、この祈りは、習慣的に唱えられることによって、いっそう自発的で自動的(self-acting)なものとなり、われわれの有機的組織の一部となる。それはあたかも小さな子どもが、「眠っているときでも、本能的に自分の父親を呼び求める」(61)ようなものである。しかしこれは、ディアドコスにとって、たんなる類比以上のものであった。なぜならかれにとって、イエズスの祈りは、われわれが覚醒と睡眠の狭間にあるとき、われわれに襲いかかる悪霊どもに対する、すぐれて効果的な武器となったからである(31)。イエズスのみ名の喚呼は、「知性の光」の直視・ヴィジョンへと通じ、同時に「内心の温もり」(warmth in the heart)の感情(feeling)へと通じている、とディアドコスは教える。ここでかれが、エヴァグリオスとマカリオスの講話とに依存しているのは、一目瞭然である。知性が抱くそれ自身の光りのヴィジョンは、エヴァグリオスの主題に特徴的なものであり(cf.Praktikos 64)、他方、温もりの感情についてのかれの言葉は、火の心象を内蔵するマカリオスの講話の「情緒的」精神(affective spirit)を思い起こさせるのである。

 

このようにディアドコスは、「清らな」(pure)祈り、あるいは集注的な祈りを強調するエヴァグリオスの考え方を、砂漠の師父たちが行っていたような片言祈祷(monologia)あるいは頻繁な反復祈祷(frequent repetition)の実践に結びつけている。それと同時にかれは、イエズスのみ名を、この反復の焦点として扱っているのである。このようにかれは、無形象の祈りに到達するための実践的な方法を提案することによって、決定的な一歩を踏み出した。これは、さしものエヴァグリオスもよくなし得なかったところのものである。そしてディアドコスは、この方法を聖なるみ名に収斂させることによって、この方法に強力な引力(attraction)を与えたのであった。

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