六世紀の砂漠の祈り

このイエズスの祈りの伝統は、続く6世紀の初頭に、聖バルサヌフィオスと聖ヨハネという、ガザ郊外のとある修道院の傍らに暮らした2人の隠修士によって引き継がれた。2人は、この修道院の修道者たちと、聖職者であれ一般信徒であれ他所から来た訪問者たちとに霊的指導を与えていた。かれらは、いくつかの文献のなかで、おのおの、「偉大な老人」、「もう一人の老人」と評されている。かれらは、自分たちの弟子であるこの修道院の院長セリドス以外の人との面会を拒んでいたので、質問はすべて文書にして提出されねばならず、同様に、その回答も文書で与えられた。これらの質疑応答のうち約850個ほどが現存している。初代教会における霊的指導の奉仕職のありさまを生き生きと描写する第一級の教父学的資料は、これを措いて他にない。

 

ガザのこの2人の老師は、オリゲネスとエヴァグリオスに公然と敵対している(Questions and Answers 600-7)。かれらは、アレクサンドリアの思弁的なプラント的伝統に立つのではなく、「砂漠の師父たちの言葉」(Aphophthegmata)の実践主義的な伝統に立っている。かれらは、謙遜、従順および自意識の削除(excision of self-will)に関するたくさんの実践的な提案を行った。さまざまな思いなしに警戒する必要を力説しつつも、かれらは、祈りを無形象で集注的なものとは考えない。かれらにとっては、砂漠の師父たちと同様、祈りと神の想起とは、可能なかぎり不断のものであるべきだった。そしてこの点でかれらは、短い語句の絶えざる反復を奨励したのである。しかし、祈りの文言の一様性を主張するディアドコスとは異なり、バルサヌフィオスとヨハネは、さまざまな祈りの定式を提案した。なかでも次の諸定式は注目に値する。「主イエズス・キリスト、わたしをあわれんでください」(175,446)。これは既述の「標準的な言い回し」と呼ばれたものに近い。「イエズス、わたしを助けてください」(39,268)。「師イエズス、わたしを守り、弱いわたしを助けてください」(659)。「主イエズス・キリスト、恥ずべき情念からわたしを救ってください」(255)。かれらは、「イエズス」というみ名を含まない短い祈りも推奨するが、一般にかれらは、聖なるみ名に最高度の価値を与えていた。また、かれらの書簡は、取りたてて片言の祈りに言及していない場合でも、「イエズスに向かって叫びを上げなさい」(148)とか、「イエズスに駆け寄りなさい」(256)、「イエズス、わたしたちの目を覚ましてください」などの発言に満ちている。

 

バルサヌフィオスとヨハネの一番弟子は、ドロテオスである。かれは、540年頃、ガザからほど遠からぬところに、自分の修道院を設立した。西欧で広く読まれ、特に初期のイエズス会士たちによって使われた、かれの主著「指図書」(instructions)のなかで、ドロテオスは、祈りに対して、かれの2人の師と同じような実践的アプローチを採用し、謙遜に中心的な意義を与えている。しかしかれは、2人の師とは違って、エヴァグリオスの影響を受けていた。「指図書」のなかでは、イエズスのみ名の喚呼が言及されていないが、かれの別の作品「ドシテオスの生涯」のなかで、それは注目すべき役割を演じている。ドシテオスは、少年のとき、修道院長セリドスの修道院に赴き、ドロテオスの指導に身を委ねた。そしてかれは、「主イエズス・キリスト、わたしをあわれんでください」と絶えずいうことによって、また時折「神の子よ、わたしを助けてください」ということによって、「神の想起」を保つべきだと教えられた(10)。バルサヌフィオスやヨハネにおけるのと同様に、ここには、複数の片言の祈りの定式が提案されている。また、この祈りの第二の定式には、イエズスのみ名が含まれていないことに留意すべきだろう。

 

ドシテオスが重病に陥ったとき、ドロテオスは、かれに、できるかぎり長く祈りを唱え続けなさいと命じた。しかしかれがついに、衰弱の極みに達したとき、ドロテオスはいった。「よろしい、もう祈りを唱えるのをやめなさい。ただ神だけを想起し、神があなたの前におられることに思いを馳せなさい」(10)

 

このように、実際に祈りを唱えることは、どれほど重要なものであろうとも、目的に到達するための一つの手段にすぎない。本当に大切なことは、神の絶えざる想起なのである。絶えざる祈りは、必ずしもかずかずの祈りを連続的に唱えることを意味しない。それはまた場合によっては、一連の外面的な行為に出る他に、無言の状態をも取り得るのである。

 

「ドシテオスの生涯」のなかに見出される2つの祈りの定式を結合して、「主イエズス・キリスト、神の子よ、わたしをあわれんでください」と唱えるイエズスの祈りの標準的な形が最初に見出されるのは、「修道院長フィレモンの生涯」においてである。かれは、エジプトの修道士で、6世紀に生きたということになっているが、たぶんそれよりも1、2世紀後の時代であろう。その霊的教えに関して、フィレモンは、エヴァグリオスと「砂漠の師父たちの言葉」に多くを負っている。しかし、かれの第一の指導者は、ディアドコスである。ただし、「清らな」(pure)集注的な祈りの必要性に関するかれの見解ははっきりせず、その不明瞭さの点で、エヴァグリオスやディアドコスの見解とは比べものにならない。かれは、内的な悲痛と静寂(ヘーシュキア)を力説する。「内的な業」(inner work)あるいは「秘めやかな黙想」(secret meditation)は、連続的であるべきだ、というのが、かれの譲らぬ言い分であった。当然のことながら、ここには、「テサロニケの教会への第1の手紙」第5章第17節の影響が顕著に見られる。イエズスの祈りは、この絶えざる想起を維持するための方法と考えられている。「眠っているときも起きているときも、食べているときも飲んでいるときも、また他の人と一緒にいるときも、あなたは心のなかで、間断なく詩編を黙想し、あるいは、『主イエズス・キリスト、神の子よ、わたしをあわれんでください』と繰り返し唱えなさい」(ET,p.348)。この引用句から明らかなように、フィレモンは、ディアドコスのように、祈りの語句の一様性を厳密に求めていない。なぜならイエズスの祈りの使用は、詩編の黙想と並列されているからである。上に挙げられた標準的な祈りの定式と並んで、フィレモンは、バルサヌフィオスやドロテオスに見られる、「主イエズス・キリスト、わたしをあわれんでください」という、もっと短い祈りも奨励する。またときにかれは、「主よ、あわれんでください」と繰り返すだけである。

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