聖書解釈の具体的手続き

 

 オリゲネスの比喩的解釈は、ある一定の方法で行われており、どうやら彼はこの方法をあるヘブライ人の教師から学んだらしい。フィロカリアに収録された詩編注解の断片には、このヘブライ人の教師の発言として次のようなことが述べられている。  

 詩編の解釈に着手しようとする我々は、聖書全体についてヘブライ人によって我々にあまねく伝えられた極めて見事な伝承を前面に立てることにしよう。すなわちこのヘブライ人は、次のように主張した。霊感を受けた聖書全体は、そこに含まれ不明瞭さのゆえに、一軒の家の中にあるカギの掛けられた多くの部屋に似ている。そしてそれぞれの部屋の前には、その部屋に合わないカギがある。それらの部屋のカギは分散していて、それぞれが、その前にある部屋と一致しない。したがって最大の課題は、それらのカギを見出して、それらが開けることのできる部屋に、それらを合わせることである。それゆえ不明瞭な聖書の理解に関しては、解釈に関連する事柄を聖書の中に互いに分散して持っている(聖書の)諸々の箇所から出発する以外に、その理解の手がかりを得ることはできない、と。私は、使徒も、神の言葉を理解するためのそのような方法を示唆して、次のように言っていると思っています。すなわち、「これらのことを私たちは、人間の知恵が教える言葉によらず、霊が教える言葉の内に、霊的なものを霊的なものと比較しながら語ります」(1Co.2,13)[1]  

 これによれば、聖書の語句の理解は、聖書の他の箇所を参照することによって行われねばならないと言うことである。オリゲネスは、この方法を「平行箇所」との比較照合という形で比喩的解釈に適用する。この具体例は、枚挙に暇がないが、一例だけを挙げると以下のようになる。  

 「獅子がそのねぐらから上ってきた。諸国の民を滅ぼすために立ち上がった」(Jr.4,7)。これが、私たちが避けねばならない敵です。獅子が私たちを追っているのです。この獅子とは、何でしょうか。ペテロが、私たちに教えてこう言っています。「あなた方の反対者である悪魔が、吠え猛る獅子のように、誰かを食いつくそうと探し回っています。あなた方は、信仰を固く守って、この悪魔に抵抗しなさい」(1P.5,8-9)と。  

 オリゲネスは、平行箇所の比較照合による比喩的解釈の方法を、聴衆にも勧めている。  

 またあなた自身も、「投げ捨てる」と「捨てる」という言葉を聖書の中に見出したなら、それらの言葉を集めることができるでしょう。そしてそれらの言葉を比較して、より大きな自信をもって判断を下すことができるでしょう[2]  

 さらにオリゲネスは、聖書の意味を確定するために、文脈を重視する。  

 苦菜についての説明は、種なしパンが誠実と真理の種なしパンであることに一致させて(a`rmo,sei)与えられなければなりません[3]

 

 もちろんこの文脈の尊重は、オリゲネスの独創ではない。それは既にフィロンが述べているところでもある[4]  

 ともあれ以上のような彼の解釈法は、彼の比喩的解釈に相当程度の信頼性を付与していると言える。しかし聖書の語句の比喩的解釈に際して、常に並行箇所が見出されるとは限らない。その場合、オリゲネスは、聖書に見出されない象徴体系に依拠する。それもまた、彼に先行するユダヤ人やギリシア人、およびキリスト者から彼に伝えられた象徴群である。その象徴群の一例を挙げると以下のようになる。  

·           「上()」「下()」という在り来たりの象徴が挙げられる。「上」は優れたもの、より善いものを意味し、「下」は劣ったもの、より悪いものを意味する[5]

·           「風」は「霊」の象徴である[6]

·           「火」は、懲らしめ(浄化)、破壊の象徴であり、これは随所に見出される。

·           固有名詞も、その語源を辿ることによって、象徴とされる。たとえば、「エルサレム」は「平和の眺望」である[7]

なお、オリゲネスの語源的解釈は、ストア派やフィロンの方法を踏襲するものである。しかし彼は、「ヘブライ人の子供たちは、エブス(という名)踏み付けられたと解釈されると言っています[8]」と述べているように、これらの語源を直接ユダヤ人から、あるいは語の語源を解説した書物から学んだようである[9]。その他、オリゲネスは、数の象徴体系[10]や、単なる語呂合わせ[11]も駆使して比喩的な意味を探っている。



[1] Cf.Com.Ps.I in Philocalia II,3(Robinson, p.38, 11s.)

[2] Hom.Jr. L.II,4.

[3] Hom.Jr. XIII,3; et cf. XIII,3; XIV,16.

[4] Cf. Philon, De conf.§14: e`pome,noi tw\/| th/j avkolouqi,aj ei`rmw/|)

[5] Hom.Jr.XIII,3(山=キリスト);XVI,1(山=預言者、丘=義人)。しかし「上()」が悪い意味に解されるときもある。Cf.Hom.Jr.V,3(山=偽りの神々、丘=神格化された人間)

[6] Hom.Jr.VIII,5.

[7] Cf.Hom.Jr.IX,1;XIII,2; L.I(III),2.

[8] Hom.Jr.XIII,2; cf. Hom.Gn.XII,4 :ヘブライ語の名称を解釈する者たちが言っておりますように; Hom.Ex.V,2:言葉の解釈者たちが伝えているところによりますと。

[9] Cf.Hom.Nb.XX,3 :「ヘブライ語の名称の解釈書の中に(in interpretatione hebraicorum nominum)、・・・私たちは、次のようなものを見出します・・・」。この書物の断片は、次の書に収録されている。F.Wutz, Onomastica sacra, (TU 41, Leipzig, 1914).

[10] Cf. 1Com.Ps.Prol (Philocalie III, Robinson, p.40, 22s) :数の一つひとつは、諸々の存在者の内に何らかの力を持っている。なぜなら万物の造り主は、万物とその諸部分をなす諸々の種の構成のために、その力を駆使したからである。それゆえ数の問題においては、聖書の中から諸々の数、しかも一つひとつの数に関する事柄に注意して、それらの事柄を追跡すべきである。Cf. Hom.Gn. II, 5; Hom. Nb. IV, 2; V, 2 etc.

[11] Hom.Jr.XVIII,9 : オリゲネスは、「レバノン」と「乳香」という言葉を使うが、どちらもその原語は、li,banojである。

 

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