(1)教師

 

 当時、説教者を表す特定の言葉はなく、それを表すために教師(dida,skaloj/doctor)という言葉が使われていた。オリゲネスは、説教壇に立つ前に、文学教師として生計を立て、その学識と信仰を高く評価されて教理教師として活躍していたため、聞き手を真摯に教え導く教師の態度に厳しい理想を持っていたにちがいない。そして彼は、旧約の神を残虐者として斥けるグノーシス主義者からの攻撃をかわすために、神は教師として振る舞うという考え方を常に強調しなければならなかった。したがって彼の講話には、教師についての主題が常に見え隠れしている。その顕著な例として、以下に、教師の使命と喜びを述べた箇所を引用しておこう。  

 教師は、聞き手の人たちが進歩し改善されたとき、彼らから利益を受けることができます。教師は、彼らの中に数々の実りを得ることによって利益を受けることができるのです(Rm.1,13)。エレミアは、ユダヤ人たちからこの利益を得なかったのでこう言っています。「誰も私に役立たなかった」と。実際、語り手は、聞き手たちの中で実りを得なければならないとすれば、聞き手が話を聞き違え、言われたことの外側にいる場合には、「誰も私に役立たなかった」と言います。なぜなら語り手は、利益を受けた聞き手が利益を与えた人に対して進歩と至福の原因となることによって得られる利益を、得なかったからです。さらにすべての教師は、学習者が利発でありさえすれば、教えることそれ自体によって、教えていること、そして学んでいることから利益を受けます。そして聞き手たちが利発であり(Is.3,3)、話を単に受け取るばかりでなく、語られたことを逆に確かめ、尋ね、検討するとき、語り手たちは、自分が伝える知識に関してより優れた人となるのです[1]  

 教師の使命は、生徒をより優れたものにし、自発的に物事を探求させるようにすることであり、教師の喜び(利益)は、ひとえにこれに成功することなのである。

 とはいえ子弟の教育は、いきなり高度な知識の伝授から始まるのではなく、それ相応の準備を必要とする。  

それで「主は、ユダの人々とエルサレムに住む人々にこう言われるのです。あなた方は自分の耕作地を新たにせよ。いばらに種をまいてはならない」(Jr.4,3)と。この言葉は、先ず誰よりも、教師たちに言われています。それは、教師たちが、聞き手の魂の中に新たな耕作地を作る前に、語られたことをその人たちに託さないようにするためです。実際、「鋤を手にした」(Lc.9,62)教師たちが、聞き手の人たちの魂を「よい」「立派な土地」に見立てて、その中に新たな畑を作るなら、彼ら種まく教師たちは、「いばらに」種をまくことにはならないのです。ところがもしも、鋤に手を掛ける前に、そして聞き手の主導的能力の中に新たな耕作地を作る前に、聖なる種子――すなわち、御父についての教え、御子についての教え、聖霊についての教え、復活についての教え、懲らしめについての教え、永眠についての教え、律法についての教え、預言者たちについての教え、一口に言えば(聖書に)書き記されている一つひとつの事柄に関する教えという聖なる種子――を取ってまく人がいれば、その人は、先ず「あなた方は自分の耕作地を新たにせよ」という掟を破ることになります。そして次に、「あなた方は、いばらに種をまいてはならない」という掟を破ることになるのです[2]  

 教師は、先ず聞き手に予備的な教育を施してから、本格的な真理の解説を行うべきであると、オリゲネスは、この講話で言っている。これは、当時のヘレニズム文化圏の文学学校で教えられていた一般教養(文法あるいはギリシア古典、論理学あるいは弁証法、修辞学、算術、幾何、音楽、天文学)ならびに哲学と倫理を基礎教科にして、高度な聖書研究に進むという、オリゲネスの教育課程を反映していると言える。実際、オリゲネスは若かりし頃、アレクサンドリアで文学教師として人々から高い評価を得ていた[3]。また、カイサリアにおいてオリゲネスに師事したグレゴリオス・タウマトゥルゴスは、その謝辞において文学教師および教理教育者としてのオリゲネスの卓越した才能を賛美しているのである[4]



[1] Hom.Jr.XIV,3.

[2] Hom.Jr.V,13; Cf. Hom.Nb.XI,3 : 聞き手たちを教え、説き、指導する教師一人ひとりが、彼の教える教会の耕作者、すなわち信者の心の耕作者のようだと、私は言いたいと思います。

[3] Cf.Eusebios, HE.VI,2,15.

[4] 有賀鐵太郎、上掲書461頁以下参照。また有賀は、同書161頁以下でこの『謝辞』に語られたオリゲネスの教育方法を簡潔に論じている。

 

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