(c)異説者

 

 オリゲネスが本講話でもっとも頻繁に取り上げる異説者は、当時、大きな勢力となっていた。マルキオン、ヴァレンティノス、バシレイデスに代表されるグノーシス派である。オリゲネスによると、彼らの誤りは、先ず旧約の神と新約の神を区別することであった。  

 異説に属する哀れな人たちが、もしもこれらのことを考えていたら、彼らが私たちを絶えず責め立てて、次のように言うことはなかったでしょう。すなわちあなたは、律法の神がどれほど冷酷で非人間的であるか知っている、(あなた方の)神は、「私は殺し、そして生かす」と言っているのだと[1]  

 救い主の到来以前のかつての神性と、イエス・キリストによって告げ知らされた神性とを切断する人々がいることでしょう。もちろんこれは、彼らの憶測に基づく限りでのことです。しかし私たちは、当時も今も神が唯一であり、キリストが当時も今もだたお一人であることを知っています[2]  

 創造主に反対し、創造主を冒涜する者たちさえ、「繁栄しています」。「彼らは植えられ、根を張り、子を孕み、実を結ばせました」(Jr.12,1-2)。マルキオンはどれほどたくさんの実を結んだことでしょう。バシレイオスは、どれほどたくさんの実を結んだことでしょう。ヴァレンティノスはどれほどたくさんの実を結んだことでしょう[3]  

 次にオリゲネスが指摘する、グノーシス主義の誤りは、人類を救われるものと本性的に救われないものの二つに分けたことである。オリゲネスによれば、神の似姿に即して造られたすべての存在者には、その存在者がどれほどひどい罪を侵していても、救いの可能性が与えられているのである。  

 異説者は、どこにいるでしょうか。何らかの複数の本性を導入して、救いをまったく受け取ることのできない絶望的なものが存在すると主張する人たちは、どこにいるのですか。もしも滅ぶべき本性が存在するとすれば、それは、バビロニア以外の何でしょうか。しかしながら神は、それさえもお見捨てになりません。なぜなら神は、医者たちに命じて、「バビロニアに松脂を塗りなさい、もしも何らかの仕方で癒されるなら」と言っているからです[4]」。  

 オリゲネスは、バビロニアを悪魔の象徴と見なしているから、悪魔も「癒され得る場合には」救われると言っているのである。とはいえ人間の救いは神によるとしても、人間は神からの救いを拒絶する自由を持っている[5]。オリゲネスは、悪魔は救われる(esse saluandum)として非難されてきたが、悪魔は――もしも望むなら――救われ得る(posse saluari)と言っただけで、しかも実際に悪魔が救われるか否かは人間の知るところではないと、ヒエロニムスによって引用されたオリゲネスの書簡は断言している[6]



[1] Cf.Hom.Jr.I,16

[2] Cf.Hom.Jr.IX,1; cf. De Or.19,12.

[3] Hom.Jr.X,5.

[4] Hom.Jr.L.II,12.

[5] Hom.Jr.V,8 : 他の誰でもありません、(罪の)覆いを取り除くことは私たち自身にかかっています。Cf.Hom.Jr.L.II,3.

[6] Hieronymus, Apologia contra Rufinum, II,18(Corpus Chistianorum, Series Latina, 74,p.54).

 

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