(3)教義

 

 オリゲネスが、講話の中で当時のキリスト教教義について系統的に語ることは、講話の性質上、ほとんどないが、最初期の作品に属する諸原理についてに述べられたような教義体系が、常に講話の土台となっている。概してオリゲネスの神学体系に発展はない。彼は、諸原理についての中で成し遂げた、当時の諸教会の共通の教え(教理教育の伝統)とそれを補足する仮説との総合を、以後の講話で、臨機に適応しているに過ぎない[1]。ただし彼の神学的思想に発展はないと言っても、若干の聖書解釈の修正はあるかもしれない。そのもっとも顕著な例は、去勢( 閹人 ( えんじん ) )についての考えの修正であろう。彼は、若い頃、様々な殉教に遭遇し、厳格で禁欲主義的な終末待望に燃え[2]マタイによる福音19,12の「諸々の天の国のために進んで閹人となる人たちもいる」を文字通りに受け取って、みずから去勢したと噂されていたが[3]、晩年には穏やかな考えを持つようになった。  

しかし賞賛に値するのは、ある人が、生きて働くみ言葉、「どんな両刃の剣よりも鋭い」(He.4,12)み言葉を受け入れて、使徒が名づけているように「霊の剣」(Ep.6,17)で――身体に触れることなく――魂の情念を切断する場合である。彼は、人々への恐れから嫌々ながらに、あるいは人々の賞賛を期待して、そのことをするのではない。むしろその人は、諸々の天の国のことを考えて、また、み言葉によって自分の魂の情念を切断することが、諸々の天の国を継ぐのに最大限に貢献すると考えて、そうするのである。このような人たちにこそ――この箇所を身体的に理解する人はそうは考えないが――、「諸々の天の国のために進んで閹人となる人たちもいる」という言葉は相応しいだろう[4]  

 オリゲネスが、キリスト教教義の要点を概略しているのは、本講話ではただ一箇所である。  

 ところがもしも、鋤に手を掛ける前に、そして聞き手の主導的能力の中に新たな耕作地を作る前に、聖なる種子――すなわち、御父についての教え、御子についての教え、聖霊についての教え、復活についての教え、懲らしめについての教え、永眠についての教え、律法についての教え、預言者たちについての教え、一口に言えば(聖書に)書き記されている一つひとつの事柄に関する教えという聖なる種子――を取ってまく人がいれば、その人は、先ず「あなた方は自分の耕作地を新たにせよ」という掟を破ることになります[5]

 

 ここでオリゲネスは、「父と子と聖霊」、「終末」(死と復活と罰)、「(新約の予型としての)旧約聖書」に言及している。これらは、洗礼志願者を主な対象とする教理教育の基本的な単元である。聖書については、既に若干触れたので、以下では、前の二つについて論じることにする。



[1] 有賀鐵太郎、上掲書20「オリゲネスの著作を年代的に研究してその思想の発展を辿るということは殆んど全く徒事である。かれが著述を始めた時にはその思想は既に出来上がっていたからである。従って私も資料の使用にあたってはあえて年代を無視した。

[2] CF.Eusebios, HE. VI,3,9-12;VI,7,1.

[3] Eusebios, HE. VI,8,1-3.

[4] Com.Mt.XV,4 (GCS 10, 358, 17s).なお、オリゲネスがこの箇所を比喩的に解釈する動機の一つは、マルキオン派がこの箇所を文字通りに受け取って、それをイエスの言葉ではないとして斥けることへの反発である。

[5] Hom.Jr.V,13.

 

次へ