(a)父と子と聖霊

 

 キリスト教が成立しておよそ二世紀が経っても、オリゲネスの時代には、三位一体の教理は確立しておらず、まだ模索の段階にあった。彼自身が示唆しているように、当時、特に問題にされていたのは、父なる神の子の神性[1]、したがって父と子の関係であった[2]。もちろん本講話にもこの問題は簡単に取り上げられている。聖霊についての言及も、頻繁に見られるが、厳密な意味での神学的考察は見当たらない。  

 オリゲネスは、本講話で、キリストの神性を否定するユダヤ教とユダヤ・キリスト教的異説エビオン派に対して、キリストの神性を主張している。  

 「人間に希望を置く者は呪われよ」(Jr.17,5)。この言葉によって私たちは、救い主は人間であって、神の子ではないと考えている人たちを反駁することができます。なぜなら彼らは大胆にも、人間の多くの罪に加えて、さらに「独り子」(Jn.1,18)、「すべての造られたものに先立って生まれた方」(Col.1,16)を神でないと言っているからです[3]  

 しかしキリストを神と見なすと、父なる神との関係が必然的に問題となる。オリゲネスは、父と子との関係を、当時の諸教会の神学的伝統や合意を踏襲しながら[4]、「子は、父に源を有し、すべてを父から受け取っている」という御子従属説的な方向で理解しようとしている。  

 しかしあの世では、神の命令からではなく、主ご自身によって、人は、はらわたと心を吟味されます。もっともここで私が、命令を受けるのは御子であり、命令を下すのが御父であり、み言葉が心とはらわたとを吟味すると言うのであれば、この限りではありませんが。私は、すべての尋問の中で、すべての苦しみの中でもっともきついものは、心とはらわたとを吟味するときのみ言葉に由来すると思っています[5]  

 また、キリストの受肉と受難における神性の弁護も、大きな課題であった。オリゲネスは、これに対しても、当時の教会の伝統的あるいは共通の教えを踏まえて応えている。彼にとってはイエス・キリストは、神であるみ言葉と人間の複合体であり、人間として生まれ、苦しみ、死ぬが、神であるみ言葉としては不動なのである。  

 ここで救い主は、神として「私は禍である。母よ」と言っているのではありません。救い主は、人間としてこれを言っているのです。それは、「わが魂よ、私は禍だ。なぜなら大地から敬虔な人が取り去られたから」(Mi.7,1-2)という預言の言葉についても同様です。(救い主の)魂は、人間の魂でした。それでその魂は、まさに「思い乱れた」(Jn.12,27)のです。それでその魂は、まさに「悲嘆にくれた」(Mt.26,10)のです。しかし「元に神と共にあった」(Jn.1,2)み言葉が悲嘆にくれることはありませんでした。あのみ言葉が「私は禍だ」と言うことはおそらくできないでしょう。何と言ってもみ言葉は、死を受け入れないからです。むしろ私たちが何度も証明しましたように、(み言葉がお取りになった)人間性がそれを受け入れたのです[6]  

 上で紹介したオリゲネスのキリスト論は、伝統的なあるいは共通の教えを踏まえているが、御父と御子の関係については、オリゲネスに独自の考え方がある。それは、御父からの御子の永遠の誕生である。従来のキリスト論では、箴言8,22-23[7]に従って、み言葉は、かつて一度、万物の創造に先立って生まれたと理解されてきた[8]。ところがオリゲネスは、これに対して、知恵の諸7,26の「知恵は神の永遠の光の輝き」に基づいて、み言葉の永遠の誕生を主張する[9]  

 私たちは、私たちの救い主がどのようなお方であるかを見てみましょう。(救い主は)「栄光の輝き」(He.1,3)です。「栄光の輝き」は、一度生まれると、(もはや)生まれないのではありません。かえって、「光」(Sg.7,26;1 Jn.1,5)が輝きを作り出すものである限り、神の「栄光の輝き」は生み出されるのです。私たちの救い主は、「神の知恵」(1 Co.1,24)です。しかるに知恵は、「永遠の光の輝き」(Sg.7,26)です。したがって、もしも救い主が常に生まれているとすれば――それゆえ(救い主は)、「(主は)すべての丘に先立って私を生んでいる」(Pr.8,25)と言われます。「(主は)すべての丘に先立って私を生んだ」と言っているのではありません。「すべての丘に先立って私を生んでいる」と言っているのです[10]  

 『諸原理について』によれば[11]、オリゲネスがこのように言う背景には、キリストがある時点で生まれたとすれば、二つの問題が生じてしまうからである。一つは、常に働く神に、「まだ生んでいない」という不作為を認めることになる。もう一つは、子なる神に有限性を認めることになるのである。  

 オリゲネスのキリスト論で、注目しなければならないのは、神なるみ言葉が宿った人間の理解である。新約聖書では、み言葉は「肉」を取ったとか、「身体」を取ったとしか言われていないが、オリゲネスはプラトン主義の人間理解を仮説として受け入れつつ、新約聖書のユダヤ・キリスト教的な人間理解を踏み越えて、人間を本質的に魂――しかもこの世に生を受ける前から存在する先在する魂――と見ている。み言葉としてのキリストは、受肉に先立って、純粋無垢の人間の魂と既に分かちがたく一体化していたのである。このような前提なしには、オリゲネスの次の発言を理解することはできない。  

 救い主が人間たちの数々の罪をご覧になって、ここで「私は禍だ」と言われたことが私たちの救い主の神性と無縁のものではなく、神としての救い主ではなく人間としての救い主、知恵としての救い主としてではなく魂としての救い主に当てはまることを示すために、私はその預言の言葉を引用しました。「我が魂よ、私は禍である。敬謙な人は地から滅ぼされ、直き人は、人間たちの中にいない」(Mi.7,1-2)と。幸いな魂は、人間の生活に入ってこられ、人間たちのために身体をお取りになりました。このような魂が数々の罪を見たとき、御父に次のように言ったのです。「私の血にどんな利益があるのですか。私が腐敗の中に降りてきたことにどんな利益があるのですか。土があなたに告白するのですか」(Ps.29,10)[12]  

 またみ言葉としてのイエスの到来は、ロゴスの到来として、受肉以前にも、その以後にも常に行われているとオリゲネスが考えていることにも注目しておこう。  

 しかしながらみ言葉は、以前にも、たとえ身体的にでなくとも、聖なる人たちの一人ひとりに到来したのであり、またその目に見える到来の後でも、さらに私たちのところに到来することを知らなくてはなりません。・・・まさに私は、キリストがモーセのところに、エレミアのところに、イザヤのところに、義人の一人ひとりのところに来られたと言いたいと思います。そして「見よ、私は、代の完成まで、いつもあなた方と共にいる」(Mt.28,20)と、キリストが弟子たちに仰せになった言葉は、キリストの到来以前に、実際に守られ、実現されたと、私は言いたいのです。確かにキリストは、モーセと共におりました。イザヤと共におりました。そして聖人たち一人ひとりと共におられました。これらの人たちは、神のみ言葉が彼らに到来していなかったすれば、どうして神のみ言葉を語ることができたでしょうか[13]  

 こうしてイエスの歴史的な受肉は、オリゲネスによれば、ロゴス・キリストの普遍的な現存の目に見える具体的実現に過ぎないのである。



[1] Cf.C.Celse, I,66: しかし今は、合成されている方に関する問題、すなわち人間となられた方がどのようなものから成り立っているかについて述べる時ではない。この話題についての探求は、いわば信者の人たちに固有の事柄である。

[2] Cf. Hom.Jr.IX,4; De Princ.I,2,1(後出)

[3] Hom.Jr.XV,6.

[4] Eg.Eirenaios, Haer.IV,38,3,73 (SC 100); Hippolytos, Haer.14 (Nautin, Hippolyte, Paris, 1949 p.174-178).

[5] Hom.Jr.XX,9.

[6] Hom.Jr.XIV,6; cf. XV,4.

[7] 「主は、その道の始めに私を造られた。いにしえのみ業になお、先立って。永遠の昔、私は祝別されていた。太初、大地に先立って」(新共同訳)

[8] Cf.Athenagoras, Legatio 10; Tatianos, Oratio 5; Theophilos, Ad Autolycum. II,10.

[9] Cf.De Princ.I,2,9; IV,4,1; Com.Rm.1,5 : non erat quando non erat.

[10] Hom.Jr.IX,4; De Princ.I,2,1: Est namque ita aeterna ac sempiterna generatio, sicut splentor generatur a luce.

[11] Cf.De Princ.I,2,1s.

[12] Hom.Jr.XV,4 ; cf.Hom.Jr.XIV,6.

[13] Hom.Jr.IX,1; cf.Hom.Lc.VII,7.

 

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