(b)終末論

 

 教理教育の重大な要素の一つとして、オリゲネスは当然、週末について語っている。本講話に見られる彼の終末論で、顕著に見られる特徴は、人間の罪を浄化する「霊的な火[1]」についての教えである。しかもこの霊的な火による浄化は、すべての人間に科せられるものであると考えられている。この点で、彼の考えは、霊的な火は大罪にだけ適応されるという当時の一般的な考えとは異なっていた。オリゲネスによれは、この世(生成界)に生まれたすべての人間は、何がしかの罪を犯すもので[2]、火による浄化を必要としているのである。  

実際、生成(ge,nesij)のもとにあるすべてのものは、火による清めを必要とします。生成のもとにあるすべてのものは、懲らしめを必要としているのです[3]  

 そしてオリゲネスによれば、この清めの火は、死後に科せられるだけではなく、自分の罪を悔いる人に対して、既に生じているのである。  

 その火をあの世ではなく、既に心の中で得るに相応しい人は誰でしょうか。私は、この火を心の中に持っている人がどのような人であるかを描写したいと思います。・・・私たちはそれぞれ、各自の良心を吟味しなければなりません。そしてどのような罪を犯したか自覚しなければなりません。なぜなら懲らしめを受けなければならないからです。エレミアに訪れ、次いでシモンとクレオパに訪れたこの火が自分にも訪れるように神に祈らねばなりません[4]  

 もちろんこの霊的な浄化の火は、万人に一様に科せられるものではなく、罪の大小によって、その程度は様々である[5]。そしてこの浄化を経ることによって、人々は、至福の域に達する。しかし福音書によれば、神に見放された人は、「永劫の火[6]」の中に投げ込まれるはずであるが、オリゲネスは、人間に科せられる罰を、人間が救われるために必要な癒しと考えているため、永遠の火という罰を無条件に認めることはできない。彼によれば、罪人は、現世の終わりに浄化されなければ、次の世において浄化される、そうでなければまた次の世においてといふうに、世々の交代の内に最終的には浄化されるのである。本講話においても、そのことは暗示されているように思われる。  

 実際、「私は七つの禍を加える」(Lv.26,21)というみ言葉は、何らかの神秘を明らかに示しています。一つ目の禍、二つ目の禍、三つ目の禍、そしていま言われたように、ある人たちへの七つ目の禍まであるのではないでしょうか。しかしすべての人たちが七つの禍によって打たれるのではないでしょう。私が思いますに、ある人たちは六つの禍に打たれ、他の人たちは五つの禍に打たれ、またある人たちは四つの禍、またある人たちは三つか四つの禍に打たれるのではないでしょうか。そして誰よりも、懲らしめを受けることの少ない人たちでも、一回は懲らしめを受けると私は思っています[7]  

 しかし現世に別の現世が次々と継起するだろうという彼の考えは、あくまでも推測にすぎない。オリゲネスは、本講話の別の箇所では、「私には分からない」と言い切っている。  

 この笑いの約束と正反対なのは、幸いなものとされた嘆き悲しみです。おそらくあなたは、幸いなものとされた嘆き悲しみが、あれこれの観点でこの善き笑いに一致するのか、そして(幸いな人たちとは)正反対の人たちに取って置かれた別の嘆き悲しみ、すなわち不幸なものとされた嘆き悲しみが、(その幸いな嘆き悲しみと)対立しているのか探求することでしょう。実際、「いま笑っている人たちは不幸である。彼らは、嘆き悲しむだろう」(Lc.6,25)とあります。幸いなものとされた嘆き悲しみと、悪い生活を送ってきた人たちに取って置かれた嘆き悲しみは、それぞれ別なのです。しかし、この後者の嘆き悲しみが、何か有益な目的を持っているのかどうか、私には分かりません[8]  

 しかし彼のこのような控え目な万民の救済の可能性は、福音が語る「永劫の火」とどう両立させればよいのであろうか。もちろんオリゲネスはこの矛盾を解決する方策を見出していた。それは、聖書は「神(の善性・慈しみ)に相応しく」理解されねばならないという聖書解釈の前提である。オリゲネスによれば、「永劫の火」は、聖書を文字通りにしか受け取れない単純な人たちのために書かれたもので、神の善性に相応しい万民救済の可能性という真理は、彼らの真の救いのために、彼らに対して隠されねばならないのである。  

 しかし、賢者だと思われていた非常に多くの人たちが、懲らしめに関する真実を見出して欺きに関する事柄を克服し、より劣った生活に陥ってしまいました。彼らは、以前考えたように、「彼らのうじ虫は死なない」とか、「彼らの火は消えない」とか、「彼らはすべての肉なるものにとって見せしめとなる」(Is.66,24)とか、「もみがらは燃え尽きない火で焼かれる」(Mt.3,12)ということについて考えた方がよかったのです。もしも彼らが、以前の考えとは何か違うことを思い描いて、「神の豊かな慈しみと忍耐と寛大さをないがしろにする」(Rm.2,4)とすれば、あなたは彼らが、自分たちは欺かれることをよしとしないと判断したがゆえに、「神の怒りと啓示と裁きの日に、自分たちに対して」、本当に「怒りを蓄えた」(Rm.2,5)のではないか、お考えください。彼らは、欺かれたなら、(怒りを)蓄えることはなかったでしょう[9]



[1] Hom.Jr.XX,8; cf.C.Celse IV, 13.

[2] Cf.Hom.Jr.XX,3; XX,8.

[3] Hom.Jr.XI,5; cf.Hom.Ez.I,3; Com.Mt.XV, 23.

[4] Cf.Hom.Jr.XVIII,1.

[5] Cf.Hom.Jr.XX,3.

[6] Mt.18,8; 25,41,46; Rm.2,4.

[7] Cf.Hom.Jr.XVII,2.

[8] Cf.Hom.Jr.XX,6.

[9] Hom.Jr.XX,4.

 

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