制作年代

 

本講話の翻訳の底本となったキリスト教古典体系(SC)232巻の編者P.Nautinによると[1]、オリゲネスが本講話を行ったのは、長老になってからのことであり[2]、長老への按手は、232年の春以降であるから、本講話の作成年代の上限は、同年春となる[3]。ところでカイサリアに身を置いていたオリゲネスは、ユダヤ教から採用された三年周期の聖書朗読に従って、「知恵書――預言書――歴史書」の順に、講話を行っている[4]。オリゲネスが、知恵書に分類される詩編の講話を行ったのは、240年ごろであり[5]、彼が行った歴史書についての講話の中でも、特に民数記と士師記の講話が、雅歌講話の序文に先行している[6]。さらにオリゲネスは、このエレミア書講話の中で、民数記講話は今後のことであると明言しており[7]、雅歌講話の序文は、オリゲネスが245年の終わりか、246年の初めにアテネに滞在していた折に作成されたものであると推定される[8]。したがってエレミア書講話の作成年代の上限は240年ごろ、下限は、246年初めということになる。しかしこの期間の間には、エレミア書講話と前後して数多くの講話がなされていることから、三年周期の朗読配分とエレミア書講話に前後するその他の講話の分量から推計して、エレミア書講話の上限は241年、下限は244年に設定するのが妥当である。すなわち本講話の制作年代は、およそ242(±2)年である。  

本講話の作成地に関しては、オリゲネスが長老としていつもの聴衆に語りかけていること、そして彼らが既に詩編講話に傾聴していたこと[9]、またやがて民数記[10]、ヨシュア記[11]の講話を聞くことになるから、彼の聖書講話が陸続として行われるカイサリアを本講話の製作地と考えなければならないのは、言うまでもない。



[1] .P.Nautin, SC 232, p.1.なお、私の解説は、ノータンの叙述に負うところが大きいことをここに記しておく。

[2] Cf. Hom.Jr. XI, 3: 私は、(立派な生活をすることを)執事以上に求められています; XII, 3, 18: 私は、私たち長老のことを言っております。

[3] Cf. SC 232, Introduction, p.15.

[4] Cf. P.Nautin, Origène et ses Oeurvres, p.403. ただし本来の講話の順番は、七十人訳聖書の配列順に、「歴史書――知恵書――預言書」と進められるべきであるが、オリゲネスがカイサリアで講話を担当するときには、既に歴史書の講話は先任者によって終了していたのであろう。

[5] Cf. Hom.Ps.36, I, 2 (PG 12, 1323 AB).オリゲネスは、この詩編講話で、2114月に死んだセプティミウス・セヴェルス帝と、238年に息子と共に暗殺されたマクシミヌス帝に言及している。

[6] Com.Ct.Prol(GCS33, 81s):しかしこれらのことについては、私たちは、主が与えてくださった恵みの内に、民数記の中で十分に語りました。・・・しかしこれらについては、私たちが士師記について語った言葉の中で十分に論じられたのを、あなたは見出すでしょう。

[7] Cf. Hom.Jr. XII, 3,21: これに対して祭司の祝福のようなものが存在しますが、この祝福については、神が許してくださるなら、やがて、預言者の言葉を吟味した後に、民数記を読んだとき、取り上げてみたいと思います。

[8] Cf. Eusebios, H.E. VI, 32, 2 et P.Nautin, Origène, p.381.

[9] Cf. Hom.Jr.VIII, 3, 2: 「そして(主は)地の果てから諸々の雲を上らせた」とあります。この言葉は、先日の詩編の中にも見られました。そのとき私たちは、どのようにして神が、「諸々の雲を地の果てから上らせた」のかを説明いたしました; XVIII, 10, 6s.

[10] Cf. Hom.Jr. XII, 3,21.

[11] Cf. Hom.Jos. XIII, 3:実際に今、イエスは、私たち一人ひとりの魂を破壊し、建てるのです。そして私たちがエレミアについて説明して、彼が破壊し、建て、抜き、植えるためにみ言葉を自分の口に受け取ったと言ったのと同様に・・・。

 

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