説教者オリゲネス

集会

 

ギリシア語原文がほぼまとまった形で伝わるエレミア書講話は、説教者としてのオリゲネスの真の姿をよく現している。そこで彼の説教の具体的状況を思い描くために、当時のキリスト教の集会がどのようなものであったかを、本講話およびその他の資料から幾らか探ってみよう。キリスト教の集会様式は、その成立以来、ユダヤ教の集会様式を踏襲しつつ、徐々に独自のものになっていった。特に最後の晩餐を記念する感謝の祭儀は、ユダヤ教の過越祭を踏まえていた。一世紀終わり、あるいは二世紀初めに書かれた十二使徒の教訓によると、その頃の公式の集会は、日曜日に受洗者だけを集めて行われる感謝の祭儀だけであった[1]。また二世紀半ばでも、集会は日曜日だけだった[2]。しかし三世紀の前半、すなわちオリゲネスが説教者として活躍する頃になると、キリスト者の集会は、二種類にまで発展した。一つは、毎週日曜日(主日)の朝と水曜日と金曜日の断食の後(午後三時以降)、そして復活祭と聖霊降臨祭の日に行われる感謝の祭儀(聖体祭儀)[3]、もう一つは、毎日開催される集会(いわばみ言葉の祭儀)である[4]  

毎日行われたみ言葉の祭儀について、少し述べてみることにする。オリゲネスとほぼ同時代のローマのヒッポリュトスの手になることが確実な使徒伝承は、次のように言っている。  

執事と長老は、司教が彼らに命じた場所に、毎日、集まらねばならない。執事は、病気が妨げる場合を除いて、いかなる時も怠りなく集まらねばならない。全員が集まったら、彼らは、教会にいる人たちに教えなければならない。こうして祈りの後に、各人は、各自が担当する仕事に赴かなければならない[5]

 

この集会の後に各自は仕事に向かわねばならないとあることから、日毎の集会は、かなり早い時間、おそらく日の出前に――そして少なくともオリゲネスの場合には、聴衆の集注力を考えて一時間ほどの長さで[6]――行われていただろう[7]。それは当然、特定の祈祷で始まったことだろう。そして読師が旧約聖書を朗読することになっていた[8]。しかし読師による朗読の長さは、後に説明するように、まちまちで、数章に及ぶときもあった[9]



[1] Cf. Didache 14, 1; 9,5; Ps.Barnaba, Ep.XV,9.

[2] Cf. Justinus, Apol. I, 67.

[3] Cf. C.Cels, VIII :我々は、日曜日と金曜日、復活祭と聖霊降臨日を定められた祝祭日として祝っている; cf.Tertulianus, De Ieiunio, 10 (CSEL 20, p.287, 8-9); Justinus, Apol. I, 67; Nautin, op.cit., p.392-3.

[4] Cf. Hom.Gn.X, 3 :もしもあなたが、毎日、井戸の許に来ないなら、もしもあなたが、毎日、水を汲まないなら、あなたは他の人たちに水を飲ませることができないばかりか、あなた自身が、神のみ言葉の渇きに苦しむでしょう; Hom.Jos. IV, 1 :キリスト者の人たちは、いつも、子羊の肉を食べます。すなわち、神のみ言葉の肉を、毎日、摂るのです; Hom.Nb. XIII, 1 :あなたが洗礼志願者の中に数え入れられて、教会の掟を果たし始めたなら、あなたは紅海を渡り、荒れ野の諸々の宿営地で神の律法を聞き、主の栄光に照らされたモーセの顔を見る時間を毎日持たなければなりません。

[5] Traditio Apostolica,39.

[6] Cf. Hom.Ex.XIII,3:何かに気を取られて、神のみ言葉をわずか一時間でも我慢して聞くことのできない人たちに・・・。

[7] Cf. Clemens Alex. Paedag. II, 96, 2:祈りと朗読と日毎の善行が行われる鶏の鳴く早朝・・・。

[8] Cf. Hom.Nb. XV, 1:「読師が朗読したこれらの言葉を・・・」。少し後でカルタゴ(Cyprianus,Ep.29, 2; 38, 2)やローマ(Eusebios, HE.VI, 43, 11)で見られるように、カイサリアでも執事が聖職者と見なされていたかどうかは不明である。オリゲネスは、聖職者として、司教、長老、執事(Hom.Jr.XIV, 4, 9)、あるいは司教、長老、執事、やもめ(De Or.28, 4)にしか言及していない。

[9] Cf. Hom.1S. 28, 3-25,§1.

 

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