(4)キリスト教生活

 

 本講話に現れたオリゲネスには、キリスト教の信仰生活と相容れない同時代の風習――と映るもの――を手厳しく糾弾して、その悪徳の一々をあげつらう厳格主義的な道徳家の風貌はない。もちろんキリスト教の信仰生活に反する重大な悪徳の幾つか(偶像崇拝、殺人、姦淫など)が、彼によって言及されている。しかし人間の改心と救済に期待をよせる彼の主眼は、むしろ信者(聴衆)の倫理的進歩(改善)、諸々の悪徳の浄化に向けられている。  

 またオリゲネスが、後代の著作家たちと同じようにに、キリスト教生活の中心に、キリストの最後の晩餐を記念する感謝の祭儀を置いているかどうかは定かではないが、彼は、み言葉に耳を傾けることが、信仰生活に不可欠であると力説している。  

 したがって真の回心とは、数々の「古事」(すなわち旧約聖書)を読むことであり、義とされた人たちを知ること、彼らを見習うこと、それら(の古事)を読むこと、批難された人たちを見ること、そのような批難に陥らないように注意すること、新しい契約の書、諸々の使徒たちの言葉を読むこと、読んだらそれらのことをすべて心の中に書き付けること、それらに従って生きることなのです[1]  

 しかしこうした発言は、聴衆の中にいた洗礼志願者たちだけに向けられたものではなかった。オリゲネスにとって、み言葉は、すべての人に必要なものなのである。彼は、民数記講話の中で次のように言っている。  

 すべての理性的存在者は、それ自身に固有で相応しい食物で養われる必要があります。ところで理性的存在者の真の食べ物は、神のみ言葉です[2]  

 あらゆる理性的存在者のみ言葉への参与という考えは、ユスティノスやアレクサンドリアのクレメンスに見られる考えの踏襲である。



[1] Hom.Jr.IV,6; cf.Hom.Lv.IX,7 : ですから霊の食物は、神的な読書と粘り強い祈り、そして教えの言葉です。霊はこれらの食物によって養われ、強められ、勝者となるのです。

[2] Hom.Nb.XXVII,1.

 

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