第十一講話

「ところで幼子は成長し、霊において強められた」と書かれていることから、「これは、シリアの総督クレニオの下で行われた最初の登録だった」と言っている箇所まで[1]  

 聖書では、成長することが二つの意味で言われています。一つは、人間の意思がまったく役立たない身体的な意味で、もう一つは、成長の原因が人間の努力に存する霊的な意味でです[2]。私たちが二番目に挙げたこの成長について、すなわち霊的な成長について、いま福音記者は「幼子は成長し、霊において強められた[3]」と語っています。福音記者が言いたいのは、「(幼子が)霊において強められた」ということです。ヨハネは、初めと同じ状態に留まり続けたのではありません。彼の中で霊が絶えず成長しました。そして霊が時々刻々成長するにつれて、魂も成長していきました。しかし魂だけではありません。感覚も精神も、霊の成長に伴いました[4]。「あなた方は成長し、増えよ[5]」と神が命じたことを、単純に文字通りの意味で受け取る人たちは、どのようにしてその言葉を説明することができるか、私には分かりません。なるほど「あなた方は増えよ」という言葉は、数に関係するものだということにしましょう。その場合には、以前よりも数が多くなれば、増加が成立します。しかし次のこと、すなわち「あなた方は成長せよ」ということは、私たちの能力に納まるものではありません[6]



[1] Lc.1,80-2,2.

[2] corporaliter(身体的な意味で、すなわち文字通りの意味で)spiritaliter(霊的な意味で)は、もちろん対をなす。

[3] Lc.1,80.

[4] いささか精密さに欠けるが敢えて言うと、魂(anima/yuch,)は、アリストテレス的な意味で人間存在の生命原理、精神(mens/nou/j)は、神的認識(啓示の受容)を可能にする魂の高次の機能、霊(spiritus/pneu/ma)は、聖霊の働きによって変容せしめられた精神の能力、sensus(感覚/ai;sqhsij)は、この場合には神的感覚(神的認識と同義)である。

[5] Gn.1,22.

[6] 「数的な増加」であれば、それは我々の意思(能力)に掛かっていようが、身体的な意味での「成長」は、自然発生的なものであるから、それは我々の意思(能力)とは関係ないということである。創世記の言葉を文字通りに受け取る人は、「あなた方は成長せよ」という言葉を説明できないとオリゲネスは言いたいのである。

 

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