第十四講話

「彼に割礼を施すべき日が来たとき」と書かれていることから、「雉鳩一つがいか鳩の雛二羽を」と言っている箇所まで[1]

 キリストは死にましたが、「彼は罪に対して死にました[2]」。それは、彼自身が罪を犯したからではありません――「実際、彼は罪を犯しませんでしたし、彼の口には偽りが見出されませんでした[3]」――。むしろ彼が死なれたのは、彼が諸々の罪に死ぬことによって私たちも死に、私たちが罪と諸々の悪徳に決して生きることのないようにするためです。それで(聖書には)「もしも私たちが(キリストともに)死んだのなら、私たちは(キリストともに)生きることにもなる[4]」と書かれています。ですから私たちは、キリストが死ぬことによってともに死に、また復活した方とともに復活したのであれば、それと同様に私たちは、彼とともに割礼を受け、またその割礼の後に厳かな清めによって清められたことになるのです。それゆえ私たちは、肉による割礼をもはや決して必要としません。彼が私たちのために割礼を受けたことを理解していただくために、どうか、パウロが次のようにきわめて明白に言明している言葉をあなたはお聞きください。彼は言います。「その方の内に神性の一切の充満が身体的に宿っています。そしてあなた方も、一切の支配と権能の頭である方の内に満たされています。またその方の内であなた方は、(人の)手によらない割礼によって割礼を受けました。それは肉の身体の剥奪であり、キリストの割礼です。あなた方は洗礼において彼とともに葬られました。そして死者たちの内から彼を復活させた神の働きへの信仰によって、あなた方はその方の内で(彼とともに)復活することにもなりました[5]」。ですから彼の死も復活も割礼も、私たちのためになされたのです。



[1] Lc.2,21-24.

[2] Rm.6,10.

[3] 1P.2,22;Is.53,9.

[4] Rm.6,8.

[5] Col.2,9-12.

 

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