第十八講話

「他方、幼児は成長し、強くなった」と書かれていることから、「あなた方は、私が私の父の家にいるべきなのをご存じないのですか」と言っている箇所まで[1]

 私の主なるイエスが生まれました。彼のご両親は、律法にある諸々の掟を果たすためにエルサレムに上り、彼のために「雉鳩一つがいか鳩の雛二羽[2]」を捧げました。また、少し前に朗読されたように[3]、シメオンが彼を自分の両腕で抱き、歴史[4]が物語ることを彼について予言しました。そしてすべてが習慣に従って果たされると、ご両親は帰りました[5]。そのときイエスは、何歳だったでしょうか。ともかくそのときまで幼児であったことは、疑いありません。しかし彼は、「成長し、強くなり、知恵」と恵み「に再び満たされました[6]」。彼は、まだ四十日の清めを満たしていません[7]。彼はまだナザレに戻っていません[8]。それなのに彼は、もう、全き知恵を再び受け取りました。聖書は、「彼が成長し、強くなり、霊を受け取った」と言うことができました。しかし彼は、「ご自分を空しくして、僕の姿をとりました[9]」ので、ご自分の清めのために生贄が捧げられるや否や、ご自分が空しくしたものを満たしました。それは彼の身体が、その場で直ちにより大きくなったからではありません。何かより神聖なものが示されているからです。聖書は、次のように述べています。「他方、幼児は、成長し、強くなり、知恵に再び満たされた」と。



[1] Lc.2,40-49.

[2] Lc.2,24.

[3] シメオンに関するオリゲネスの発言は既に第十五講話から見られるが、「少し前に」(dudum)という言葉は、直前の感謝の祭儀の際になされた第十七講話をさす。

[4] historia: ルカによる福音書のことである。

[5] Cf.Lc.2,39.

[6] Lc.2,40.

[7] Cf.Lv.12,5.

[8] オリゲネスは、ルカ2,39-40を読み違えているように思われる。しかし「キリストの思い」(o` nou/j Cristou/: DePrincIV,2,2: Philocalia I,10)が表されれば、それでよいのだろう。

[9] Ph.2,7; cf.Com.Mt.XIV, 17 (GCS 10, 326); Hom.Jr.X, 7 (GCS 3, 77); ComJn. 20, 18 (GCS 4, 350)

 

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