第二講話

「さて、二人は神のみ前に正しく、主のすべての掟と定めにおいて落ち度なく歩いていた[1]」と書かれていることについて。

 自分の諸々の罪に対して何らかの赦しを得たいと望む人たちは、罪なき人は誰もいないと考え、『ヨブ記』に書き記された証言を援用することでしょう。それはこう書かれています。「汚れから清い者は誰もいない。たとえその人の地上での人生がたった一日であっても。その人の月日は数えられる[2]」と。しかし(罪の赦しを望む人たちは)、その言葉を口にするだけで、(霊的)解釈をまったく知りません。そのような人たちに対して私たちは次のように簡単に応えましょう。罪のないことは、聖書の中では二重に理解される、すなわち決して罪を犯したことがないということ、罪を犯すのをやめたということです。ですからもしも彼らが、決して罪を犯したことのない人だけが罪を持たないと言われると主張するなら、私たちも、罪のない人は誰もいないということに同意しましょう。なぜなら私たちは皆、たとえ後に徳を得ることになるとしても、一度は罪を犯しているからです。しかし彼らが、どんな人も諸々の悪徳から諸々の徳へと立ち返って、結果的には二度と罪を犯さないほどになるということを否定するような意味で、罪なき人間は誰もいないということを理解するなら、彼らの意見は間違っています[3]。なぜなら前に罪を犯した人が、罪を犯すのをやめて罪なき人と言われることもあり得るからです。



[1] Lc.1,6.

[2] Jb.14,4-5.

[3] Cf.C.Cels.III,69(GCS 1,262).

 

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