第二十一講話

「ティベリウス帝の統治の第十五年に」と書かれていることから、「あなた方はその諸々の小道を真っ直ぐにせよ」と言っている箇所まで[1]

 預言の言葉がユダヤ人たちにだけ向けられていたときは、ユダヤ人の王たちがその称号で言及されました。たとえば、「アモツの子イザヤが、ウジヤ、ヨタム、アハズ、ヒゼキヤの治世に、ユダヤとエルサレムに対して見た幻[2]」とあります。私は、イザヤの時代に、ユダヤの諸王を除いて他の人が名指されるのを見たことがありません。私たちは、幾人かの預言者たちの内にも、イスラエルの諸王(の名)を読みます。たとえばこうあります。「そしてイスラエルの王ヨアシュの子ヤロブアムの時代に[3]」。しかし福音の神秘[4]が宣べ伝えられ、全世界に福音が種蒔かれねばならなくなったとき――その先駆けであるヨハネは、荒れ野にいました――、そしてティベリウスの支配が全地に及んでいたとき、その統治の「第十五年に、主の言葉がヨハネに臨んだ[5]」と述べられています。しかしもしも救いが、諸国の民の中から信仰に至る人たちにだけ告げられ、イスラエルは完全に除外されねばならないとすれば、「ティベリウス帝の第十五年、ポンシオ・ピラトがユダヤの総督であったとき[6]」と言えば十分だったでしょう。



[1] Lc.3,1-4.

[2] Is.1,1.

[3] Am.1,1.

[4] sacramentum evangelii. オリゲネスにとって、聖書全体は、霊的意味を内に秘めた神秘である。

[5] Lc.3,2.

[6] Lc.3,1.

 

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