第二十三講話

「見よ、斧が木々の根元に置かれている」と書かれていることから、「さらに徴税人たちも、彼から洗礼を受けるために来た」と言っている箇所まで[1]

 ヨハネは当時、「見よ、斧が木々の根元に置かれている[2]」と言っていました。そしてもしも(世の)完成がすでに差し迫り、諸々の時の終わりが切迫していたとすれば、私にはいかなる問題も生じないでしょう。なぜなら私はその場合、「見よ、斧が木々の根元に置かれている」という言葉や、「善い実を結ばない木はすべて切り取られ、火の中に投げ入れられる[3]」という言葉は、その当時実現された預言だと言うからです。しかしその当時から今日に至るまで多くの代が過ぎ、無数の年が経過しました。聖霊は預言者を通して、どのような意味で「見よ、斧が木々の根元に置かれている」と言っているのか、私たちは探求しなければなりません[4]。私は、イスラエルの民に対して、その伐採が近いと預言されているように思います。実際、彼の許で「洗礼を受けるために出てきた人たちに対して、何よりも彼は、「あなた方は、悔い改めに相応しい諸々の実を結びなさい[5]」と語りましたが、まるでユダ人たちに対するかのように「あなた方は、あなた方自身の(心の)中で『私たちはアブラハムを父として持っている』と言ってはならない。私はあなた方に言おう。神はそれらの石からアブラハムの子らを起こすことができる[6]」と言っているのです。ですから「見よ、斧が諸々の木の根元に置かれている」という言葉は、ユダヤ人に対して語られています。



[1] Lc.3,8-12.

[2] Lc.3,8.

[3] Lc.3,9.

[4] 聖書に記載された文字通りの意味では実現不可能な事柄や実現可能であるが実現していない事柄は、霊的解釈の出発点になる。

[5] Lc.3,8.

[6] Lc.3,8.

 

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