第三講話

「主のみ使いが彼に現れ、香壇の右手に立った[1]」と書かれていることについて。

 物体的なもので感覚を欠いているものは、他のものによって見られるために、みずから何らかの働きをすることはまったくありません。それが望もうが望むまいが、それを眼差す他者の目が、視線と観想を向けるとき、それを見るのです。実際、人間や、分厚い物体に囲まれている他の物は、(他者の)目の前にいるときに、知覚されるために何をすることができるでしょうか。これに対して、優れて神的なものは、それがみずから望まなければ、たとえ(他者の)目の前にあっても、見られることはありません。見られるとか見られないとかは、神的なものの意思に掛かっているのです。アブラハムや他の預言者たちに神が現れたのは、神の恵みによることでした。アブラハムの心の目だけが[2]、神を見ることの原因だったのではありません。むしろ神の恵みが、みずから見られることを義人に無償で与えたのです。



[1] Lc.1,11.

[2] oculus cordis:非物体的な神的な事柄を認識する精神のことをさす。これは「神的感覚」とも言われる。Cf.DePrinc.IV.4.10.

 

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