第三十六講話

「自分の魂を救いたいと願う者はそれを失う」と書かれていることから、「神の国はあなた方の間にある」と言っている個所まで[1]

1 「自分の魂を救いたいと願う者はそれを失い、自分の魂を失う者はそれを救う[2]」と(聖書は)言っています。殉教者たちは、自分の魂を救いたいと願っています。それゆえ彼らは、それを救うために、失います。しかし、自分の魂を救おうと望んで、それを失わない人は、「体も魂も」等しく「地獄[3]」で失います。そこで(イエスは)、「あなた方は、体を殺すことのできる人たちを恐れてはならない。むしろ、魂と体を地獄で失わせることのできる方を恐れなさい[4]」と言います。この話題に関して、私たちは、能力の許す限りで、次のように簡潔に述べたいと思います。「魂的な人は、霊に属する諸々の事柄を受け入れず[5]」、それゆえ、救われません。「魂的な体が蒔かれ、霊的な体が復活します[6]」。さらに、「主に寄りすがる人は、一つの霊[7]」になります。ですから、「主に結ばれる人」が、魂的であるにもかかわらず、それによって霊的なものに変えられ、「一つの霊になる」とすれば、私たちもまた、主に寄りすがって一つの霊に変容されるために、私たちの魂を失いましょう。



[1] Lc.17,33,.20, 21

[2] Lc.17,33.

[3] Mt.10,28.

[4] Mt.10,28.

[5] I Co.2,14. フランシスコ会訳『新約聖書』の脚注によると、「魂的な人」(homo animalis)は、神の霊の助けなしに、人間に生来備わっている力だけで生きる「自然のままの」人間を意味する。

[6] I Co.15,44.

[7] I Co.6,17.

 

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