第五講和

ザカリアは口が利けなくなったことについて[1]

 ザカリアが祭司として、神殿の中で香を捧げていたとき、口が利けなくなり話すことができなくなりました。彼は、ただ身振りで示すだけで、息子ヨハネの誕生まで、ずっと口の利けないままでした。この物語は結局、何を示しているのでしょうか。

 ザカリアの沈黙は、イスラエルの民における預言者たちの沈黙です。神は、決して彼らに語りません。そして「元から父なる神とともにあったみ言葉[2]」は、私たちに向かいました。キリストは私たちに対しては黙りません。キリストは、彼らに対して、今日に至るまで沈黙しています。それで預言者ザカリアも、沈黙したのです。実際、彼が預言者であり祭司でもあったことは、彼の諸々の言葉から確かめられます。しかしこれに続く言葉は、何を意味しているのでしょうか。「彼は、人々に身振りで示し[3]」、声の喪失を諸々の身振りで埋め合わせました。私は、言葉も理性も伴わないけれども、諸々の身振りと少しも違わぬ業があると思います[4]。理性と言葉が先行し、それに業が続く場合、言葉と理性に飾られた諸々の身振りは単純なもと見なされるべきではありません。



[1] Lc.1,20-22.

[2] Jn.1,1.

[3] Lc.1,22.

[4] Ego puto talia esse opera, quae absque sermone atque ratione nihil nutibus different.ここに訳した「言葉と理性」(sermo atque ratio)、および次節訳した「説明」は、もともとギリシア語では、λογος一語であったろう。オリゲネスはこのロゴスの多義性を利用して講話を進める。

 

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