第九講話

「マリアはエリサベツとともに、三か月とどまった」と書かれていることから、「ザカリアは神をたたえながら言った」と言っている箇所まで[1]

 

 語られた諸々の事柄も、為されたと報告されている諸々の事柄も、それらの理拠は、私たち信者が招かれているキリストへの信仰と聖霊に相応しいものでなければなりません[2]。そこで今度は、なぜマリアが懐妊の後エリサベツの許に来て、「彼女とともに三か月とどまった[3]」のか、その理由を探求せねばなりません。あるいは、福音の歴史を書いていたルカが、さらに「マリアは彼女とともに三か月とどまり、その後、自分の家に帰った」と付け加えたのは、どのような理由によるのかを探求せねばなりません。とにかく何らかの理由があるに違いありません。神が私たちの心を開いてくださるなら、引き続く講話がそれを明らかにするでしょう。

 実際、もしも単にマリアがエリサベツのところに来て彼女に挨拶しただけで「(エリサベツの)胎内の子が(喜び)おどり」、「エリサベツが聖霊に満たされて[4]」、福音書に書き記されている事柄を預言したとすれば、しかもわずか一時の間にそれほどの進展があったとすれば、マリアがエリサベツの傍らに腰をすえていた三か月の間にヨハネがどれほどの進歩を遂げたか、私たちの想像に難くありません。



[1] Lc.1,56-64.

[2] 霊感を受けた聖書のあらゆる記事を「神に相応しく」(qeoprepw/j)解釈することは、オリゲネスの聖書解釈の一大原則である。しかしこの原則は、同時代のストア派の古典解釈法に、最終的には古代ギリシアのエレア派のクセノパネスにさかのぼる。

[3] Lc.1,56.

[4] Lc.1,41.

 

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