大唐国、我が朝の人の、或いは四・七の詩に作り、或いは三十一文字の歌に連ね、又は古き文の詞にも、浮世の常ならぬことを言い置き侍れども、意を尽くざりし程は、行く水に数を書く様になんありて過ぎ侍りぬ。然るに、慶長五年の秋の始めつかた、石田治部小輔光成が倒(さかし)まなる謀を廻らせしに、今の征夷大将軍家康公、その比(ころ)はいまだ内府にて、武州に下向ありし其の隙に、天下の人々を語らい家康公を背き侍りか、治まれる世の中忽ち(たちまち)乱れて、日本六十余州二つに分かれ、光成に従うをば京方と云い、家康公をひいきしをば関東方と(云っ)て、其の心を知らぬい(不知火)の筑紫の終()てまで、ここやかしこに攻め戦侍りしに、家康公は元よりも、古今に例(ためし)少なき名将にてましませば、謀を帷幄の中に回(めぐ)らし、勝つことを千里の外に決せんとや思し召しけん。此の事、京都より頻波(しきなみ)の注進()聞し召しても、敢えて事とも思召す御気色もなかりければ、畿内より供奉せられし大名達さえも、心の乱れ様々也。況(いわん)や其の付き順いたる士卒共の、深き御内証をば知らずして、御上洛は有りや無きや、遅きは早きはと、色々もどかしく言い合えるも、分別なきものの上よりは、げに最もとぞ覚えける。

 

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