ここに少し思いあやぶむ事()侍り。頃(このごろ)、人の世にもてはやす貴理師端の教えは、或る人はたうとしと云い、又、或る人はおそろしきようにも取沙汰すれば、此の事如何と不番(いぶかしく)、「故を温め、而して、新しきを知る」と云う事あれば、あはれ委(くわしく)語る人も侍れかしと思いけるに、都の内にて遍く人の知るばかりに思い入りし道心者の、或る()は法師なる、或る()は尼たる、一人ならず二人ならず、元の教えを捨て此の宗に立ち入り、今は猶後生の歎きも色深く、一入、再入の紅とか云うなるように成たるあり。其の上、自らと同じ思いにて世を遁れし尼も、其の中に侍るよし聞き及びければ、如何様に尋ね遭いて聞かばやと、かかる人の行衛を求めけるに、「昔、光源氏の大将、あらぬ浮世の思いにて、求め行き玉いし五条あたりにこそ、貴き尼は栖み玉え」と、人の教えに順いて行き訪ねて見れば、その辺り棟門()高き家もまじわりたる傍らに、板の扉し、わびしげにさし付けて、かたへ(=片方)は山里めきたる柴垣などして、真に物さびたるに、折節、秋の末なれば、物悲しさも与所には様替りたる庭の面に、蔦(つた)や槿(むくげ)うらかれて、草々()踏みしだきたる道は、一筋さすがに残りたる方に、そなたへ行く童あり。それを知るべに不図軒近く歩み寄て、「人や、ある」と問うに、内より五十ばかりなる尼出て、「誰を尋ね玉うぞ」といえば、「いや、さして尋ねまいらする人も侍らず。世を厭う者は、親しきも疎かも同じ事なれば、内へ入させ玉えかし」といえば、聞きもあえず、少し程内へ入て、頓(やが)て又、同じ人()外の方へ帰り来て、「くるしからず。こなたへ御入り候へ」と云う程に、さし入て見れば、思いしよりは、いまだ年も若き人の、誠に思い入たる姿と見えて、何の映えもなき壁のかたへ(=片方)の障子に、見も馴れぬ御影を掛け、こき墨染めに面痩せたる有様、云いばかりなし。暫しありて、「思よからずや。如何なる人にて渡らせ玉うぞ。此方へ通らせ玉え」とて、如何にも睦まじげなる気色なれば、先ず()、心をち居て嬉しくなん有りける。

 

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