三論宗之事

 

10 妙秀。あらあら不思議や。是は相宗(=法相宗)に於いても、随分の法門と聞き侍るが、何として、か様に明らかにはしり(知り)玉うぞ。

幽貞。御不審尤も(もっとも)の理(ことわり)也。初めに申しつるごとく、我が妻のゆかりの出家は、千里の外をも遠しとせず、学徳目出たき人の有りとだに云えば、尋ね求めて、形(かた)のごとく(形通りに)宗々の極めをもしり玉いたるに人にてをわせし故、常に語り玉いし事を聞き侍りしによって也。さて又、三論宗の上を申さば、二蔵、三転法輪と云わる事を以って、一代の教門に尽くると見えたり。二蔵とは、一には声聞蔵とて諸(もろもろ)の小乗を納め、二には菩薩蔵とて諸の大乗をい(納め)る。さて、三転法論とは、一には根本本輪とて華厳を納()れ、二には枝末法輪とて諸々の小乗を尽くし、三には摂末帰本法輪とて法華()、涅槃()をおき(置き)、我が宗をば般若()の上に於()て是を立てたり。此の宗の所詮の理と申すは「色は即ち是れ空、空は即ち是れ色」にして、今の法相などの心には遥かにかわり、有為(=現象的存在)の法の外に無為(絶対常住の状態)なく、無為の法の外に有為もなし。性相(=本体と現象)平等を云る宗也。但し、此の宗は諸宗の邪執とて、かたおち(片落ち)たる所を嫌い、是を破らずといえども、又、我が宗の分をも立てず。此の故に、消滅断常、去来一異(=消滅去来、一異断常)とて、八つの迷いの品をあげ(挙げ)、又、八不と申して、不生不滅、不断不常、不去不来、不一不異と破すとも、此れは不にもとど()まらず。其の故は、「言いて当たること無し、破して取らず」と云いて、当たる事なければ、破して取らずと也。此の手だて、誠に面白く有る物ならばこそ、兎にも角にも云えけれ。仏法は畢竟、空なれば、何共かとも、詞(ことば)に及ばずと也。其の上、仏法の病は、有執と云いて、ありと思う事也。此の病を癒すには、空の薬を用いずしてかなわず。されば、病なおりて後は、又、空の薬ををもすつべしと也。此の故に、有を捨て、空に著すれば、病又然なりと云えり。一度なき物とさとりて後は、またなき物ともかたく思えば気くるしきに、いか様にも成る次第にせよと云うが、仏法の唯中(=核心)にて侍り。さても、勿体なき事(=不都合なこと)にあらずや。

 

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