天台宗之事――付日蓮宗

 

12 〔幽貞〕さて、天台宗と申すも、是又、極めたる大乗にて、事広く侍り。されども、先ず、其の要を取って申せば、一代(=釈迦一生涯の説教)を分別せらるるには、四教、五時と云う事を立てたり。さて、是の四教と申すは、蔵、通、別、円。五時とは、華厳、阿含、方等、般若、法華、是也。先ず、四教の内、蔵とは、三蔵教と云いて、界内六道の聚(=衆)生、苦を離れ道を得べき旨を明かす小乗の教え也。何とて三蔵と云うぞとなれば、修多羅蔵、毘尼蔵、阿毘曇蔵とて、経、律、論、或いは戒、定、恵の三を三つの蔵に納め置くようなるに依って、三蔵教とは云える也。蔵とは、くら()おさむる(納むる)方にて侍り。されば、是は誰に対して説きたる教えぞと云えば、「正しくは二乗を化し、傍らに菩薩を化す」とて、さしむかい(差し向かい)、本に説きたる処は、声聞、縁覚の二乗の為、かたわらには、又、菩薩をも教ゆると也。然れば、此の三蔵の為には、何事を教えたるぞと云えば、諦、縁、度の法門と也。諦とは四諦、縁とは十二因縁、度とは六度也。四諦と云うは、苦、集、滅、道。声聞の為に是を説きたり。されば、此の四諦の心を申せば、苦、集の二諦は世間の因果と申し、滅、道の二諦は出世(=煩悩からの解脱)の因果と申す也。諦(=真理の解明・悟り)の字を明むると読みて、よきとやらん申され侍り。されば、先ず、苦諦ていは、此の身を苦果の依身(えしん=心の拠り所としての肉身)と申して、うるさき果報の身也とさとるを、苦諦と云う。さて又、かようには、何として成りたるぞといえば、過去の煩悩、悪業を集めし処、因と成りて、今此の果を得たりとさとるを、集諦(じゅうたい)とは申す也。此の苦果の依身(=肉体)をば、何として解脱すべきぞと云うさとりを、道諦(どうたい)とは申す也。道諦とは、智恵にて侍り。滅諦とは、此の道諦の智恵にて諸法の著(ちゃく)する心なくなるが故に、此の時あらわるる無為の理(=真理)を、滅諦とは申す也。無為とは、しわざなしと云う心也。然らば、道諦は出世の因、滅諦をば出世の果と云うと心得玉え。畢竟して(=結局のところ)、此の四諦と云うも、人我(じんが)の身とて、我が有りと思う此の我は、実に有る物にあらず。真は無き物ぞと云う事をおしえたる物也。さて又、縁覚に対して説ける十二因縁と申すは、過去の二因、現在の五果、現在の三因、未来の両果、と云う事を合わせて十二因縁とは申す也。先ず果(=過)去の二因とは、此の我なき前に、父母の起こす妄念を無明(=すべての煩悩の根源)と云いて、一の因とせり。次に又、其の然に依りてなす処の業(ごう)を行と云いて、二の因と申す也。さて、現在の五果の第一をば、識と云えり。是即ち、一滴托胎の初め也。二には、名色(みょうしき)と云えり。名色とは、初の識と云える一滴の露が、胎内にて次第に人形となるまでの間也。三には、六入と云えり。是は目、口、耳、鼻などの備わる位也。四には、触と云えり。触とは、ふるるなり。ふるるとは、人は生まれ出でても、三つ四つまでは火にも水にもふれざれば、其の寒熱をしらぬが故に、此の間を触と云えり。五には、受と云えり。受とは、うくるにて、苦楽をも、うけこころみ、根(=感知作用)、境(=感知対象)、識(=純粋意識)も和合する五、六歳より十四、五まで、婬欲の起こらぬ程也。是までを現在の五果と申す也。さて又、現在の三因と申すは、一つには愛と云いて、十六、七歳より婬欲の念を起こし、求むるを申す也。二には諏とて、よわいさかんなるに随いて愛念に著し(=執着し)、是を専らにとるを云えり。三には有とて、彼(かの)愛、諏の業をつくる処を云えりとぞ。是を何とて現在の三因とは云うそなれは、過去の無明行は、今の人の因と成りたるごとく、今の三因、又、未来に出べき人の為に因となるが故也。さて又、未来の両果とは、一には、生、二には老、死也。惣じて是が十二因縁也。されば、生とは、愛、諏、有の業を作れば、必ず又前に識と云われたるごとく、生を受ける者あり。生を受ければ、必ず老死す。是を今の為に、未来の両果とは申す也。然れば、四諦、十二因縁は、開合の不同とて、四諦はせばく(狭く)、十二因縁はひろきまでの違いにて侍れども、至極は無我の観に至らしめん為の道なり、とうけたまわる。さて又、菩薩の為に説きし六度(=六波羅蜜)とは、一には檀波羅蜜とて布施の行、二には尸羅(しら)波羅蜜とて戒の行、三には羼提(せんだい)波羅蜜とて忍辱(にんにく)の行、四には毘梨耶(びりや)波羅蜜とて精進の行、五には禅波羅蜜とて禅定の行、六には般若波羅蜜とて智恵の行、此等を以って、未来に成仏すべしとの教え也。

 

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