13 されば、此の声聞、縁覚、菩薩の三乗とは、如何様なる物ぞと云えば、先ず、声聞と云う物は仏の声を聞き、其の教えを信じ、極めは見道、修道、無覚(=学)道とて、三の位(=段階)を定め、四向、四果の聖者と云えり。それと申すは、見道の位に初めて入りたるをば須陁洹向(しゃだおんこう)とて、初心也。是を預流(よる)とも云えり。『婆沙論(ばしゃろん)』に、其の故を出して、「初めて聖流(しゃりゅう)に入るが故に、名づけて預流と為す」となり。是れ即ち、聖人の流れに預かる心なるべし。須陁含果(しゅだおんが)より斯陁含向(しだごんこう)、斯陁含果(しだごんが)、阿那含向(あなごんこう)、阿那含果(あなごんが)までを修道の位とす。 須陁含果とは、今申しつる預流れの果也。斯陁含向、斯陁含果をば、、一来向、一来果とも云えりとぞ。故を尋ぬれば、欲界に今一たび生まれ来たるべきを以って也と云えり。阿那含向、阿那含果をば、不還向、不還果とも申す也。是は欲界に再び生まれかえるまじき故也と云えり。阿羅漢向、阿羅漢果、此の二つを無学道の位とす。阿羅漢と申すは、翻名とて、あたりたるやわらげ(当たりたる和らげ)はなけれども、義に依りては、煩悩の賊を殺す故に、殺賊と云い、三界の生をはなるれば、不生とも申す也。又、見道、修道、無学道と云う心を尋ぬれば、見道とは、無漏智(むろち=煩悩からまったく離れた清浄無垢の知恵)を以って、三界の見惑(=知的観念的な煩悩)を断じて、四諦の理を見る故にと也。四諦の理とは、空也。さて、修道とは、見惑よりも、又、断じがたし。思惑(=感覚的肉体的な煩悩)を断ずる修行をする故也と云えり。無学道とは、声聞の極めの位にして、はや学ぶべき事もなき故也と云えり。是は先ず、声聞に付ての事。されば又、縁覚と申すは、梵語なれば辟支仏(びゃくしぶつ)よ云うを、唐にては独覚とも縁覚とも申す也。十二因縁を観ずれば、縁覚と云う。他にかかわらず、山林幽居を頼み、飛花、落葉を見て無常を観じ、唯独りある事を本とする故に、独覚とも云うが、世の中の人、我がばかりのようにする者をば独覚心と云えるも、此の謂われにやと覚えたり。菩薩とは梵語の略、具(つぶさ)には菩提薩埵(ぼだいさった)と云えり。然れば、菩提を、唐にては覚と反す(ひるがえす=翻訳する)。覚とは、さとる也。薩埵をば、唐にては有情と反す。有情は、即ち、衆生なり。「一切衆生は悉く仏性有り」といえども、中について(=中でも)、菩薩はさとる心ある故に、独り覚有情と云えり。有情とは、なをし(=それでもまだ)情想のある為也。仏は情尽くして(=情を完全になくして)さとる故に、有情の字を付けずして、唯、覚とばかり翻せり。

 

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