14 是までは、三蔵教に付て大方申し侍りぬ。さて、通教と申すは、先ず、此の心通じたるおしえといえる事也。何に通じたると云えば、三蔵教には声聞、縁覚、菩薩に別々に教えたる諦、縁、度の法門を、通教にては皆同じく教えたる故に、通したる教えとは申す也。是を釈(=注釈書)には「三乗同じく禀()くるが故に、名づけて通と為す」と云えり。又、色々に通じたる謂れも侍れども、それをば略し申す也。さきの三蔵をば析(=折)空観と申し、此の通教をば体空観と申す也。先ず、析空観と申すは、三蔵までは別して二乗(=声聞と縁覚の二乗)の心愚かなるが故に、人我(にんが=自我)の空もしりがたきに依って、折りくだきて、物を空にしてみせたるにて侍り。喩ば、此の扇は空しき物ぞと云えども、地(=地紙)、骨、かなめ()のつらなりて、れきれきたる(=順序正しくなっている)時は、更に(=どうしても)是を空とわきまえぬ人の為に、其の扇を骨は骨、地(=地紙)は地として、引き破りてすてんとき、其の扇と思いし形、いづくにあるべきやと教える時、誠(まこと)、扇と云う物の相(=見かけの姿)はなかりけるよと、わきまうるが如く、四諦、十二因縁の法門をといて、人と云う者の姿も、元来有るべき物にあらざれども、父母の起こす妄念、無明行を因とし、其よれ識、名色、乃至(ないし)、愛、取、有などの因縁(因は結果を生じさせる内的な直接的原因、縁は外的な間接的原因)にひかれて(=導き出されて)こそあれ、此の因縁はくば、争で(いかで)人我の相もあらんやと、皆空にしは()つるが故に、三蔵をば析空観と云い侍るものか。又、通教は、はや大乗の初門、調杬(=機)入頓の教え(=機を調え頓教に入る教法)と云いて、大乗に起初及門(=大乗が起こる初めの入口)、頓教に入らしむる為に、杬(=機)を調える教えなれば、体空観と云いて、是ははうちあがりたる位(=向上した段階)と承る。然れば此の体空観に云える謂れは、二乗の心も、爰(ここ)にては次第に智恵深くなるが故に、彼扇の体を破(はし)てみするに及ばず、其の儘(まま)空ぞと教えたる者也。是即ち、色即是空と云う心にて侍る。仏法には、兎に角に、空がひとりだちとみえたり。されば、次第に次第に位すぐるる(勝るる)が故に、三蔵には、三賢、七聖とて、次第の位をたて侍れども、此の教えには、地位と申して、十地の位を定めたる也。此の十地も、委(くわ)しは事ながき法門にて侍る程に、略してあらあら申すべし。一には乾恵地(けんねぢ)と申す。是は智恵かわきたる地と云う心にて侍り。其の故は、地位には及びたれども、初心なれば、無漏の智水のかわきたると云えるなるべし。二には性地(しょうぢ)と申す。是は無漏の性智、漸発する位なる故に、かくは申す也。無漏とは、理をしる悟りの方と心得給え。此の故に、此の性地の心を『弘決(ぐけつ)』とやらんに、「薄く理解が有る故に、名づけて、性地と為す」と釈せられたり。三には、八人地(はちにんぢ)と申す。是は八忍、八智と申す事あり。其の故に、八人地とは申す也。然らば、八人の人の字には忍ぶと云う忍の字をこそ書くべけれども、人、法二つなき謂れに、人と云う字を書く也。都て(すべて)心は、修行の道には、堪忍なくてはの事にて侍るにや。四には見地(けんぢ)と申す。是は三界の見惑を断じ、無始より已来(このかた)、いまだ見ざる理を見る位なる故に、見地と申す也。五には、薄地と申す。是は欲界の九品(くほん)の惑と申す事の侍う(さぶろう)。その九つのまよいを、此のくらいに六つ断ずれば、跡のまよい薄くなる故に、薄地とて、うすくなる地とは申す也。九品の惑と申すは、人には、貪、瞋(しん)、痴とて、貪欲、 瞋恚(しんに=立腹・憤慨)、愚痴の三毒が迷いの首(はじめ)と成り侍るに、それに上、中、下の三品(さんぼん)を合わせ、九品の迷いとは申す也。六には離欲地と申す。是は、さきに断じ残す処の三品の思惑を、此の位にして断じ、欲界の生をはなるる故に、離欲地とて欲をはなるる地と云えり。七には已弁地(いべんぢ)と申す。是は、色界、無色界に七十二品の思惑と云うる事あるを断じ尽して、所作既に弁ゆるの位なれば、已弁地とは申す也。八には支仏地(しぶつぢ)と申す。支仏とは、前に申しつる様に、縁覚の事にて侍り。されば、声聞は、七地入空(=七地に空に入る)とて、ようよう前の七地まで入る。爰(ここ)にて空に帰しとどまる故に、思惑の習気(じっけ=習慣の気分・思惑の煩悩を去っても、なお残っている習慣性)が残るを、縁覚は今一地すすみあさって(=いま一歩進めて)、彼習気をも断ずる故に、八地を支仏地とは申す也。此の習気を断ずると申すは、喩ば、木を焼きて灰になしたるは、思惑を断じたる心。さて、此の灰をも払い捨てたるは、習気を断ずるにて侍るとぞ。九には、菩薩地と申す。是は、三乗の中には菩薩利根(=非情に賢い)なる故に、第九地に進み、「誓いて習を扶(たす)けて生ず(=再び生まれる)」の利益(りやく)を施すが為也と云い侍る。されば、菩薩「誓いて習を扶けて生ず」とは何ぞと申せば、「 誓いて習を扶けて生ずとは、実の業報には非(あら)(=実際に行った過去世の行為の結果ではない)」と釈せられたり。惣じて、三界に生まれ来たる事は、見惑、思惑のある故也。さるに依りて、声聞、縁覚は此のまよいを断じ、習気までをも断じて、三界の生を離るるを極楽とす。是は小根(=小乗の教えを受ける能力が劣っている)の故也とぞ。しかるに、菩薩は大乗根の故に、三界に入りて衆生を利益すべき為に、わざと残す習気なれば、ちかって(=誓って)習気をたすく(=扶く)とは云うるとの儀也。か様の事を聞かば、三界も有りて、衆生も救わるる事が、仏法にも有る様なれども、是は教相(きょうそう=表面的な教え)と申して、唯面(ただおもて)にをしえたる分ばかりにて、誠は初め申しつる如く、三界と申すもなく、衆生の、仏の、などと云う事も侍らぬぞ。既に教(=華厳経)にも、「三界は唯一心のみ」と説きたる上は、三界とても、此の一心をはなれてはなきぞとの教え也。臨済と申す禅の祖師、三界唯一心の心をうけついで、「你(なんじ)三界を識らんと欲するや。你が今聴法す底の心地を離れず。你が一念心の貪是れ欲界。你が一念一心の嗔是れ色界。你が一念の心の痴是れ無色界。是れ你が屋裏の家具子也」とて、三界も你が家の内につかう器ぞと云いたり。是は、先に、次いでながら、教相に迷い玉わぬ為。さて又、十二仏地と申す。是は、第九地にて菩薩わざと習気を残して、利益成就の上に、第十地にすすみ、一念相応の恵を以って、其の習気を断じ、仏果に至る故に、仏地とは申す也。此の一念相応の恵とは何ぞなれば、空恵と一念とをひとしく見るを申す也。又、この空恵とは何ぞなれば、無心、無念の処、一念とは色々起こる念の事、相応とは如何様にも念は起こらば起これ、念々無自性(むじしょう=実体はない)とて、自()ある性にてはなし、と云う処をさとるを一念相応とは申す也。是は十地につきてあらあら申し侍りぬ。

 

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