15 妙秀。初めの程こそ初めの程こそ奇特共(とも)心得侍れ。今は、はや驚くにたらず。如何なる知識達(=人を教化して仏道に導き入らせる人・善知識たち)も、かようの理を分けて(=整理して)、おしえ玉う事なし。十地の仏など申せば、極楽浄土の内にある事かと思いしに、さては是もさとり、修行の位にて侍るぞや。しからば、此の通教の内にある四種の仏土と申すも、定めて此の娑婆(しゃば=煩悩と苦悩とを堪え忍ぶこの世)の内の事にてぞ侍らん。又、四門得道など申すは如何。

 幽貞。其の事也。知らぬ人は、十地などと云えば、なき浄土もあるように心得、其の内の位かなと思うは、誠おかしき事にて侍り。さて又、四種浄土と申す事も、仰せのごとく、此の娑婆をはなれて、ある事にてはなし。しかれば、此の理をも四門得道の事をも、大方申し侍るべし。先ず、四種の浄土と申すは、一には常寂光土、二には実報土、三には方便土、四には同居土(どうごど)、是也。されども、此の四度にて、此の土(=世界)をはなれて別にあるにあらず。記の十(法華文句巻十)にも、「直に此の土を観れば、四土具足す。故に此の仏は即ち三身(=法身、報身、応身)なり」と釈せり。同九にも、「豈(あに)伽耶(=ブッダガヤ―)を離れて別に常寂を求めんや。寂光の外に、別に娑婆が有るに非(あら)ず」共云えり。畢竟しては、此の寂光と申すも、一心の異名也。記の五(=法華文句記巻六上)に、「今日之前、寂光の本従()り三土の跡を垂れ、法華に至り、三土の跡を会摂(えしょう)して、寂光の本に帰す」と釈せられたり。今日之前とは、法華よりさきの事、寂光の本より三土の迹(あと)をたるるとは、一心真如の内証より方便して、色々に説き下したるを、法華に至りては、皆是別にあらず、一心真如とぞ教えたるを、三土会接して、寂光の本に帰すとは申す也。さて、四門得道と申すは、四教何れにもある法門なれ共、尋ね玉う間、申すべし。四門とは、有門、空門、亦有亦(やくうやく)空門、非有非空門、是也。此の門とは何事ぞと申すに、「門者()能通を儀(=義)とす」と釈して、是より真如法性の内証に入る為の口にて有ると也。然れば、有門とは、此の目に見たる万(よろず)の法(=事物)は、皆かりと(=に)有と観じて、法性に叶うを申し侍ると也。空門とは、初めより如幼(=幻)即空の処に心をかけて観じ、法性に叶うを申す也。 亦有亦(やくうやく)空門とは、或る時は有門を観じ、或る時は空門を観じ、一辺に留まらざるを云う也。非有非空門とは、万の法を如幼(=幻)にも非ず、即空にも非ずと観じて、法性に叶うを申す也。此の外、通教に猶(なお)色々の事侍れども、是を略し畢(おわん)ぬ。

 

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