16 別に、別教とは何とて申すぞなれば、通教にも替わり(変わり=異なり)、円教にも別なるが故に、別教と申す。又は二乗の人(=小乗の声聞の人と大乗の菩薩の人)を隔てたる故にも、別教とは申す也。別教に色々の有る中に、五十二位とて、位五十二に極まれり。是も一つ一つ申せば、終(はて)しなき事なるに依りて、其の都合(=要点)ばかりを申すべし、其れと申すは、十信、〔十住〕、十行、十廻向、十地。此の上に等覚、妙覚と云う事を立て、五十二位とは申す也。先ず、十信と云う信の字は、人の言葉とかきて、能化(=教える側の人)の云う事を疑わず、信ずる事を十信とて十の重(=段階)を挙げたる也。『大論』(=大智度論)と云える書に、「仏法の〔大〕海は信を〔以って〕能入(=そこに入る)と為す」とのべたり。この心は、仏法の事広き事、大海のごとくなれば、信を以って、干(=肝)要とすと云えるなるべし。十住とは、十住入空(=十住に至って空に入る)とて、命の十信の十(=段階)まで、空の悟りに入り、般若の智恵に住する位を云えり。十行とは、前に空をさとりたる上に、十行出仮(=十行に至って仮の現象界に出る)と申して、かりに方便化度の為に(=適宜、衆生の救済の為に)出るを申す也。是即ち、十廻向とは、十行の上にて、菩薩の衆生を利益する方を十の位に分けたる事にて侍り。又、十地とは、其の名も位も、前[]通教の十地には替わりたるとも、心は是も断惑、証理とて、まよいを断じ、理をさとる方なれば、重ねて申すに及ばず。さて、此の上に等覚、妙覚の二位を立てたり。先ず、等覚と申すは、別教の心、無明の数十二品を立て、此の位にては、はや十一品[]を断じて、残る処の惑障唯一なる、ひとしきさとりと読めり。是も色々の理あるとも、畧(りゃく)し侍りぬ。妙覚の位は、十二品の無明を惑断し尽くし、惑障残る処なければ、たえ()なるさおとりといえり。是れ則ち、「等覚一伝(=転)して、妙覚に入る」と云いて、等覚を一伝(=転)すれば、この妙覚也とぞ。是までは、別教の大方にて侍り。然れば、又、円教とはいかなる教えぞと云うに、仏意相応の機と申して、仏の心のごとくなる機に対して、仏の内証(=内心の悟り)をありのままに教えたる教えにて侍るとぞ。それと云つば、生仏不二(=生仏一如)、迷悟一所と申して、衆生も仏も、二つに非ず。迷いも悟りも、只一如ぞと悟らしむるを、円教と申す也。訴(=所)詮、円教とは一心の異名と心得玉え。其の故は、「万法、円(まどか=円満)に備わる故に、名づけて円と為す」と釈して、円教とは十界(=迷いと悟りの十世界)、三千(=三千大千世界)の依正(えしょう=依報<外的世界>と正報<衆生の肉体的精神>)の万法(=一切の存在)、世間、出世[]の諸法を円満して、欠くる処なしと誦(となえ)るが故に、円教と云うとぞ。我等が一心と云うも、又、万法円満の体也。されば、釈にも、「一心は万法の惣体也」と見ゆる也。又、「只心是れ一切法。一切法是れ心」とも尺(=釈)せり。是即ち、円教の内証也。

 

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