17 妙秀。かように、生仏不二と聞くときは、誠に仏法とは何もとうとき事は侍らず。されども、仏には法、報、応の三身などと申す事のあるは、世に有りがたき事とこそ、うけたまわれ。是をば、いかが心得侍るべきや。

 幽貞。其の御事也。仏に三身と申す事のあるとて、是又、与祈(=余所)の事にては侍らず。真実は、衆生の身中にある事也。是即ち、寂、智、用の三にて侍り。寂とは、心のしずまりて、妄念、妄慮の無き事。此の問いを法身とみる。智とは、心の智恵をはたらかす事。此の時を報身とは申す也。用とは、はたらきはたらく事を初めとして、みな是、化身也といえり。化身と云い、応身と云う。是又、かわる事なし。応身は、一つにて侍り。惣じて、仏法には、何事も我が身を離れてあるとは申さず。弘法大使(=空海)の「夫(それ)仏法は遥かに非ず。心中にして則ち近し。身を棄てて何れにか求めん」と云えり。さて、此の円教には、六即の位と云う事を立てたり。六即と云う心は、「六の故に濫を簡(えら)、即の故に初後不二なり」と云えり。此の心は、衆生も仏も、迷いも悟りも、一往は別々なれば、一、二、三、四、五、六と次第せるようなるを、六の故に濫を嫌うと云う。又、即の故に初後不二なりとは、誠に衆生も仏も無に、迷いも悟りも別ならぬ所を云えり。其の一つ一つの名を申さば、一には理即。是は未だ、仏とも聞きしらぬ凡夫の位。但し、極めては是を本の仏と云えり。『心要』(=『天台伝南岳心要鈔』巻第三)などには、「一切衆生の心性は則理の仏なり」と宣いたり。二には、名字即と申す。是は理即の凡夫が、或いは経巻などの説を聞き、知識の教えをうけて、仏とも法とも云う名をしりたる位にて侍り。三には観行即。是は名字即に於いて聞きたる処を修し行ずるを云う也。四には相似即と申す。これは、迷いを払いて、説法利生の徳用ある、此の次の位なる分真即の悟りに相似たる故に、相似即とは申す也。五には分真即、是は妙覚円満の位に対して、分の言葉を置きたり。分とは、全(=完全)からぬ方也。妙覚極果の位にも、一分は及びたると也。六には究竟(くぎょう)即と申す。究竟の二字を極め極めると読めり。是即ち、無明と云うを、暗き迷いののあるを晴らして、法性の奥に極まりたる心也。分真即は等覚の位、究竟即は妙覚の位となり。しかれば、「等覚一転して、妙覚に入る」とあるを、伝教大師(=最澄)は、「等覚一転して、理即に入る」と尺(=釈)せられたり。是即ち、さとりさとれば、未悟に同じと申して、極め極めて見れば、仏法には仏も法ともしらぬ凡夫が仏にてあると也。「中々(なかなか)に人里ちかく成りにけり、阿ま里[]山の於()くをたづねて」と読めるも、此の心也。東山鹿の谷より、猶も山深く入りて居(おる)を、とんと分け入りたれば、又、坂本が近く成りて侍る也。先ず、是までが四教の大方にて侍り。さて、五教の始めは華厳也。仏の説法を五体に分けたる故に、五時と云う也。華厳は三七日を一時とし、乃至(ないし)法花は八ヶ年を一時とする也。しかれば、先ず、華厳は何として云うぞなれば、「因の花(=華)[]より果の徳をかざる」と云う譬え也。説く処は、寂滅道場とて、彼(かの)菩提樹の下にして、法恵、切(=功)徳林、金剛童(=幢)、金剛蔵と云う四菩薩に仰せて、九世相入(くせそうにゅう)の法門、法界円融の悟りを、ありのまま説かしめ、空即是仏の理を教えしむといえども、人皆此の機に及ばずして、「聾の如く唖の如く」と云いて、聞いてもきかず、云いもいわれぬ心地して、頭をふり、法筵を巻き返しし(=説法の座の筵を巻き返して退席した)が故に、方便の為、第二時阿含の会()が初りて侍るとぞ。されば、衆生の初めに此の華厳の説を聞き得ざりし謂れを尋ねるに、尺(=釈)迦の説法よりさきには、経と云う事もなく、論と云う事もなく、悟りなどと申すようなる事もなかりしかば、唯(ただ)自ずから人は心の教えに任せて、上には楽しみどころ、とうときあるじのあるべき事を思い、下には魔界の厭(いと)うべき事をのみ思うに、此の釈迦出でて、「三界は唯一の心、心の外に別法無し」とて、心の外には地獄も天堂もなし。とうときあるじもある事なし。空こそ、則ち、仏なれ、と教えつるが故に、案の外にて、皆人あきれて退きたると見えたり。勿体(もったい)なそ(不都合なことぞ)、釈迦殿や。性徳(=先天的な素質や能力)の人の心に任せおかば、後生のなきなどと云うる事をば、中々思うまじかりつるに、おのが心を本として、人に教えたるが故に、今の世までも、後生は有るまじきぞと思う迷いの残りて、人をまよわし侍る也。『法華』には、「自ら此の経典を作りて、世間の人を誑惑(おうわく)す」とて、此の経典を作してより、世界の人をまよわすと人の云うべきと、説きおきつるは、誠にて侍る也。されば、此のあると云う人の心ば(心葉=心)をば、迷いと云いて。それを除くべき為に、方便として彼の寂静樹(=菩提樹)下を立ちて、鹿野宛(=苑)と云う処におもむき、十二年の間説かるを、第二時の阿含ご申す也。然れば、阿含と云う心は、阿は無の儀(=義)、含は有の儀(=義)といえり。是即ち、四諦、十二因縁をといて、虚空仏性の理をみすれば、有と思う念もなくなさしむる教えなる故に、阿含とは申す也。第三時は、「方等は説時不定」と、山(=比叡山)にはいえども、三井(=三井寺・園城寺)には、「十六年の間の説法也」と定められたり。是は弾呵(たんか=維摩が小乗の教えを墨守する弟子を強く叱ること)とて、二乗をそしり嫌いたる教えにて侍り。何と嫌い誹(そし)りたるぞと申せば、阿含にて空理を聞き、さては我と思う者もなかりけるよと、深く空に沈みたる故に、彼二乗を弾呵(そしりきらい)、高原の陸地には蓮華の生ぜざるがごとく、二乗の心地(=心という大地)には仏性の蓮華出生する事あるべからず。犬狗(けんく)、野干(やかん=ジャッカル)の心をば起こす共、二乗の心を起こさざれなんどと、嫌われしに依りて、二乗の心も錯乱して、空と聞きし程に、げにもと思えば、又、今是を嫌い、有と説く。有とやせん、無とやせん。何れ(いずれ)にてか有らんと、空有の二念にただよいたるが、方等(ほうどう)の心にて侍り。さて、何とように空と聞き得たるを、又、爰(ここ)にはきらいしぞとみれば、二乗[]空見にかたまらば、我がおしえも後には用いべからずと思う故に、又有るようには云いなしたる物と聞こえたり。今の世にも、仏法は皆此の分と見えたり。有ると云わんとすれば、釈迦の心にそむく。明らかに無と云わんとすれば、又、布施、施物もとるべきようなく、陪堂(ばいどう=客僧が僧堂の外で食を受けること)の種もなくなるが故に、後生は有物の無物の、又、有物のなどと、病目に茶をぬりたる(=糢糊として物がよく見えないことの譬え)とやらん、むさと(無作=無思慮に)云いておくと見えたり。さて又、第四の般若は、爰(ここ=漢訳)には智恵といえり。余経(=他の経)何れも智恵にあらずと云う事なしといえども、余経多くは戒、定、恵の三受(=学)にわたるを、此の経には畢竟空の智を以って本とするが故に、とりわけ智恵とは云う也。是即[空の](=沙)汰と云いて、右、方等の空有の二念をゆりそろえて(=具合よく揺り合わせて)、畢竟空の処を十四年にときたるものにて侍り。されば、此の終わりに『無量義経』を説きて、法華の為には序品の心に用いたり。其の内に、「四十余年、未だ真実を顕さず」ち説きたるは、阿含十二年、方等十六年、般若十四年なれば、惣じて四十二年也。此の間にはいまだ真を顕さずと云う儀(=義)也。さて、其の真をば、いつあらわしたるぞと申せば、第五時法華の時。此の間八ヶ年に、法花一部八巻を真実とて説ける法門也。其の一部八巻の要を取って申せば、妙法蓮華経の五字の題目に極まり、此の五字の一々の心[]尋ねれば、妙とは不可思儀(=議)とて誉()めたる詞なり。何を誉めたるぞと云えば、法をほめたる義に応ずる次第ならば、法妙と云うべきに、文の弁に任せ、妙法(=勝れた正しい教え)とはつら子()たり。しかれば、此の誉めたる法とは何ぞなれば、法とは十界、十如、権実の法といえり。是即ち、人々の一心法をさしての事にて侍り。人の心、ある時は苦しみて地獄と起こり、或る時は悲しみて餓鬼と起こるかとすれば、また、無心、無念にして仏果をあらわす。是を有と云わんとすれば、其の姿を見ず。無といわんとすれば、又、十界の念起こるが故に、心をさして妙法とは云わるる物也。是を真にわきまえざるに物の為、次の蓮華の二字をばそえて侍り。一心を、あの水中にある蓮にたとえたる事にて侍り。蓮は淤(=汚)泥の中に有りても濁りにし(=そ)まず、又、花の中に葉も実も備わる物にてあり。一心も、万(よろず)の念の、其れが其れにもならざるは、蓮の濁りにしまぬがごとし。又、此の一心の、地獄と起こる因の一念に、やがて、又、仏果もあれば、蓮に花の因、実の果、一つに備えたるを、因果不二なる此の一心にたとえたるを、譬喩の蓮花とは申す也。又、当体の蓮花とは、人々此の胸の内にある心(=心臓)の形、つぼめる蓮花のごとくなれば、此の赤肉団(しゃくにくだん=心臓)をさして、直(じき)に妙法蓮華といえる儀(=義)也。次に、経とは、たてと読む字也。(妙法蓮華経の)五時(=字)をたてとし、四経をぬき(=横糸)にして、一切の法門を織り出したるを、経とは云えり。畢竟して、法花と申すが、此の一心の事也。さるによて、妙楽(=妙楽大師)の尺(=釈)に、「法花一部は万寸と知るべし」と云えり。万寸とは則ち心(=心臓)の事にて侍り。胸中の彼(かの)赤肉円(=団)を申す也。

 

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