18 妙秀。御物語のように、法華の談儀(=義)をも度々聞きしに、替わる事も侍らず。いつもの仏法也。さりながら、三種の法花と申す事のあるをば聞き玉わずや。さようの珎敷(めずらしき)事もや侍るべき。

 幽貞。伝教大師の尺(=釈)に、「「一仏乗に於いて」者()、根本法花の教え也。「分別して三と説く」者()、隠蜜(=密)法花の教え也。「唯、一乗のみ有る」者()、顕説法花の教え也。妙法之()外、更に一勺(=句)の余経無し」とあり。爰に三種の法花と云う事が聞こえたり。先ず、「一仏乗に於いては、根本法華[]教え也」とは、仏の内証を、機に対して未顕の重(=真意を未だ顕さない段階)申す也。二には、隠蜜(=密)法花とは、顕れてとく処は、四味三教なれども、蜜(=密)意を以って云えば、是も法花也と云えり。其の故は、二もなく三もなき処を、人の機に依りて分別して、三と説きしを以って也。三に、顕説法花とは、第五時の開会(かいえ)の法花也。開会とは、法花以前には不成仏(=成仏できない)と、二乗を嫌いしに、法花の時、一実の理に開(ゆる)して会(かなわ)しむる也。『経(=法華経)』に、爰を、「汝等の行ずる所は、是菩薩道なり」とあり。是即ち、当位即妙、本位不改と云いて、諸法実相の内証(一切の存在のありのままの真実)ひらけてみれば、初めの地獄、后(のち)の仏果、皆一心の具徳なれば、地獄と起こる一念も当位即妙、餓鬼と起こるも即妙、乃至(ないし)仏果と起こるも即妙なれば、二乗も元より也と云う、開会とは申す也。開会の二字を、ユルシカナワシムルと読むべしと云えり。然れば、法花已(=以)前には二乗を嫌い、きびしくへだて、「四十余年、未だ真実を顕さず」と説かるる程に、法花の一乗[]妙典にては、如何なる真を説かるるかとみれば、是(これ)御覧ぜよ、又、本(=元)のもくあみ(=あ木阿弥)也。穴賢(あなかしこ)、か様の事、日蓮宗の御房(=御坊)達へ、わらわ(=妾・私)が申したるとばし語り玉うな。惣じて、あの日蓮宗と申すは、天台の内証にはかわり(=天台宗の考えとは違い)、万に私なる事をのみ云いて、此の御経(=妙法蓮華経)ならでは助からずと申す也。是は皆、仏法にても観道と云いて、悟りに暗き故にて侍り。禅宗などは、かようの宗をば無眼子(むがんす=無知な人)とて、法の為には、めくらのように云えり。法花一部を尺(=釈)するにも、因縁、約経、[](ほんじゃく)、観心(かんじん)とて、四種尺(=釈)ある中に、観心の釈を心得子()ば、唯(ただ)他の宝を数うるに譬たり。疏(しょ=経・論の注釈書・法華文句)にも、観心の尺(=釈)に、「日夜、他の宝を数うるも、自ら半銭の分も無し。但、己の心の高広を観じ、無窮の聖応を扣く(たたく=求める)、機が成じて、感を致し、己の利を逮得す」と見えたり。然るに、日蓮宗は、或いは因縁の尺に取りつき、「罪障深き身、殊に女人などは、此の仏(=御)経、尺(=釈)迦仏の外に助からず」などといい、又、「余(=他の)経は皆是の法花の実を顕さん為なれば権経(ごんきょう=方便の教え)也。法花最第一」といいまわるばかりにて、其の法花の実は観心にある事をば、夢現(ゆめうつつ)にもわきまえずして、御経のみが、とうときと見るが、日蓮宗の心にて侍り。さればにや、私なる事を作(なし)、「念仏無間、禅天魔、真言亡国、律国賊、法花最第一」と云いまわる也。『尺籤』(=法花玄義釈籤)にも、「若し法華を弘めんに、偏に(ひとえに)讃するは、尚(なお)失する(なり。況や(いわんや)(また)、余(=他経)ならん耶()。何となれば、既に権(ごん=一時的な教え)を開き、実を顕す。豈(あに)一向に権を毀る(そしる)べけんや」と云えり。是は妙楽(=妙楽大師)などの心には、法花を広めとて、偏に讃()むべき事にさえもあらざれば、ましてや、余経をそしらんは、沙汰のかぎり也。其の故は、既に開権顕実といえば、権の外に実もなく、実の外に権もなきに、「四十余年、未だ真実を顕さず」と云う文のごとく斗(ばかり)の儀(=義)を見るは、法敵(=仏法の敵)なりと思えり。今も昔も、日蓮宗などのように心得たる人もありつるか。唐土に法花(=達)禅師と云いし僧の侍りしが、法華経一万部も読誦(どくじゅ)せば成仏せんと思いたるが、既[]はや三千部読みて、その後、六祖(=慧能)にまみえしかば、六祖、此の僧の為に偈(げ=解説)をなして、「心迷わば法華を転じ、心悟れば法華を転ず。誦(となえ)ること久しくして、己を明らめずば、義の与(ため)()(しゅうか=敵)と為()る。有念の念(=思念)は、邪を成(しょう)じ、無念の念は則ち正なり。有無倶(とも)に計らざれば、長く白牛車(びゃくごしゃ)を御す」と有りしかば、其の時、法達禅師()悟り()[]「経誦三千部。曹渓(=慧能)()一勺(=句)に亡ぶ」と懺悔して、誦経(じゅきょう=経を暗誦すること)せざりしと也。さて、此の偈の心を申すに、「心迷わば法花[]転じ、心悟れば法華を転ず」とは、心まよえば法花経にみちびかれ、心悟れば経をみちびくと也。「誦(となえ)ること久しくして、己を明らめずば、義の与(ため)()(しゅうか=敵)と為()る」とは、読むばかりにて、我が心を明らめざれば、却ってあだとなるべしと也。「有念の念(=思念)は、邪を成(しょう)じ、無念の念は則ち正なり」とは、色々の事を思うはわろし、仏とも法とも思わぬが本の事ぞと也。「有無倶(とも)に計らざれば、長く白牛車(びゃくごしゃ)を御す」とは、其の心なにもなくば、いつも大白牛車にのれるぞと云う心也。白牛車とは、法華の譬に、羊車、鹿車、牛車とて侍り。其の上に、白牛車と云うが、実大乗の人[]乗り物也と云えり。されば、『譬喩品(ひゆぼん)』に、「丹枕を安置し、駕する(=牛車ひかせる)に白牛を以ってせり」と侍り。此のあかき枕を置くと云うが、無心、無念に安住する事ぞと注したり。かようの事を心得ずして、日蓮宗は、唯(ただ)此の経の力ならでは、後生をたすからぬぞなどと上つらを申す也。心法は経にあらわるる正体、経は心より出でたる影にて侍るぞ。是をばしらで、経ばかりをとうと(=尊)がるは、体をばとらで、影を取るにて侍る也。

 

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