19 妙秀。さようにうけたまわれば、『法花経』とても、誠(まこと)、とうとき事もなけれども、又此の経は龍女(りゅうにょ)さえも成仏しぬれば、殊に女の信ずべき御経也と云う時は、自(み=自分)も法花宗にてはなけれども、あら有りがたの事やと思い侍る。さて、龍女成仏の事は如何。

 幽貞。仰せの如く、法華第一の名誉と云うは、龍女が成仏の事にて侍り。さりながら、是は皆偽りなり。其の故は、先ず、龍宮界と云う所なければ、龍女と云う者も、又、彼が父なりと云う沙竭羅(しゃから)龍玉(=王)[]云う者も、皆有る事なし。水の底には、昔より今に魚の類より外はなし。されば、畜類には後生の沙汰なし。如何に経にあればとて、道理もはただ()さで、皆それを信ずるは、智恵をもちたる甲斐もなし。惣じて、釈迦程のうそつきは候まじ。一休の、「うそつきて地獄におつる物なくば、なきこといいししゃかいかにせん」とと読まれたりしは、さすがに発明(=聡明)の僧にて侍しと覚えたり。先ず、最前申せし須弥山などとの事を初めとして、今此の龍宮界などと云う事も、皆なき事にて侍るぞ。尺(=釈)迦のうそつきにて侍る証拠、又、此の法華経にも偽り多き事をみせまいらすべし。すぎたる事はなかりしを、ありたりといわば、水かけあい(=水の掛け合い)とて、実否が決せられ侍らぬ程に、目の前にみゆる偽りどもを、少々取り出して、みせまいらせ、ばけ(化け=偽り)を顕し申すべし。されば、先ず、『[]宝塔品(ほうとうぼん)』には、「爾()の時仏前に七宝の塔有り。高さ五百由旬(=由旬:インドで牛車一日分の行程)、縦広(たてよこ)二百由旬。地従()り湧出し、其の中(=空中)に住在せり」と見えて、又、其の次に、「其の仏神通と願力とを以って、十方世界の在々所々に。若()し法花経を説くこと有らば、彼()方宝塔をして皆其の前に湧出して、[全身を]塔の中に於いて在らしめて、「善き哉(かな)、善き哉」と讃して言いたまわん」とあり。是(ここ)[]以って、尺迦の説法のとき、地よりわき出でたりしと云う五百由旬の塔も、偽りなる事をしり玉え。其の故は何ぞ。如何なる所にても、『法花経』をさえ説けば、宝塔わき出でて、其の中より「善き哉、善き哉」と云わんとあれども、其の時より今に至るまで、何(いず)くにてさようの事侍りしや。余所は先ずおき、又、廿一ケ寺にも、五百由旬はさておき、五寸四方の宝塔も涌き出だしたる事なければ、元より多宝も出て「くさめ」とも云いたる事を聞き侍らず。是、そのうその一つにて侍り。又、『安楽行品(ぎょうほん)』の中には、「此の経を読む者は、常に憂い悩むこと無く、又病み痛むこと無し。顔色鮮白ならん」とはあれども、法花の御房の内にも、極めて憂い悩む人多く、病痛人も其の数をしらず。顔色鮮白ならんといえども、みめ悪く、色黒く、不人物(=不細工な人)なる人幾ばくぞや。其のうその二つ也。同品に、「若し人、悪罵せば、口は即ち閇(=閉)塞せん」と見えたるが、法花を誹謗する者、幾らも侍れども、一人も口の閇(と=閉)じ、塞がりたるをみず。是又、うその三つ也。『薬王品』には、「此の経は即ち、閻浮提(えんぶたい=人の住む世界)の人の病之良薬と為()らん。若し[]病有りて、是経を聞くことを得ば、病は即(ただ)ちに消滅して、不老不死とならん」と見えて侍れども、祈禱とて、此の経を誦(とな)うる内に、死ぬとは申さじ、いきとまりたる人多く侍り。不老不死ならんといえども、法華の人とても、定命(じょうみょう=普通に定められた寿命)八、九十をすご(過ご)するはまれ也。是も偽りの四つとや申すべき。又、『普門品(ふもんぼん)』の内には、「彼の観音の力を念ぜば、火坑(火の穴)は変じて池と成らん」とあれども、観音を念ぜん人なりとも、火の坑(あな)につきおとさば、焼け死なん事は云うに及ばず。唯(ただ)其の家に火をかくるとも、水とはならで、焼け死なん事、何[]疑いがいあらんや。永万元年(西暦一一六五年)七月廿九日の事かよと、其の念ぜらるる千手(せんじゅ)の御堂清水寺も炎上したりと、『平家物語』に見えたり。さらば、余の者も付けたる火か、山法師(=比叡山の法師)より焼かれて侍り。此の文の偽りをとがめたる事、今のわらわ(=私)(ばかり)にても侍らず。其の時の人も、心あるは、おかしく思いけん、「観音の火坑、変じて池と成るは如何に」と欺きて(=馬鹿にして)、大門(=総門)[]口札(=高札)を打ちたれば、又、おとらぬをこの者(鳴呼の者=気儘な無法者)有りて、[(=歴)劫不思儀(=議)、力及ばず](観音の永遠不可思議の請願も力及ばず)と、札を立て返ししたりとある事は、今の世まで笑い草にて侍らずや。さればこそ、此の文をも、其の偽りの五と申すべし。其の上、かようの事を申さば、法花経の三分(=序分・序論、正宗分・本論、流通分・結論)には、皆偽りにて侍り。心を留めて此の経を読み玉わん人は、わらわ(=私)が申す事、まことなりとわきまえ玉え。中にも、迹(あと)前かんがえなき事は、『湧出品』の内に、「諸の菩薩、地より湧出して、尺迦を讃歎恭敬(=褒め称える)するに、釈迦黙然として坐せし事、其の間五十[]劫を経たり。されども、仏の神力の故に、半日を過ごすがごとくに、諸の大衆も思いたり」とみえたり。ここに於いて思案し玉え。よし半日の如くにも、大衆は思はば思え。五十[]劫を経たるに於いては、其の内に、幾千万の月日が過ごすべきに、尺迦は八十入滅(=生死の苦界を離れ、涅槃・滅度に入ること)と云えり。げにも、周の昭王廿六年に当たりて生まれ、同(=同じ周の)(ぼく)王五十三年に当たる時、入滅すと見えたり。此の間、七十九年也。若し五十二[]劫をへたる者ならば、何として生死の時節、此の手記(=記録)に合うべきや。かようの迹前しらずの云いたき儘の云いようは、たわごとにてあらずや。あまりに色々の事を申すに依りて、さきの龍女が事も、わき()へなりて侍り。さて、龍女が成仏の事も、申つるように、真にはなき事也。されども、ここに又、別に心得ようあり。口伝の上よりは、「皆人[]胸中に三寸の小蛇あり」と申す。是が八歳の龍女と申す者にて侍るぞ。其の三寸の小蛇とは、貪(とん)、瞋(じん)、痴()の三毒の事。是三寸の小蛇なるが故に、八歳と云うは小の方になぞらえて申し侍るとぞ。小の法になぞらえば、六歳とも云わずして、何とて八歳とはかぎり(限り)たるぞなれば、人には八識(=眼・耳・鼻・舌・身・意識・末那識・阿頼耶識)と云うこと侍り。三毒も此の内にある小蛇なり。此の故に、八歳は八識によそえて(=似せて)云うと心得る也。九識(=八識に阿摩羅識・無垢識を加えたもの)もあれども、それは本法の重と申して、はや、龍女が成仏の堺(=界・場所)、南方無垢世界にて侍り。さればにや、第九識をば無垢と申す。無垢とは、けがれなき識と云う事[]悟る上のこと也。又、南方とは、何とてさしたるぞなれば、南をば火にかたどれり(=火を象徴する)。火は離の卦(け=易の卦:物では火、方位では南)にて侍り。離中断とて、卦の形 は、かように有る。是即ち、心中が虚にして、無心無念なれば、三毒がやむ(止む)方にて侍り。其の処を上部とは申す也。されば、無垢世界にての在所をば、丹枕(あかきまくら)とならうと(=いいならわすと)、此の龍女が成仏に付きて、六ケ(六箇)の秘事と云う事ある内に見えて侍り。前も申しつるごとく、丹枕とは、無念々々と云う事にて侍る程に、龍女と云う者も、身を離れてはなしと心得玉え。かようの事をば、あの日蓮宗などには夢にもしらで、唯(ただ)御経の功力ならでは、たすからぬと云う。かたはらいたき事ならずや。此の理をよく明らめたる臨在は、「三乗十二分教(=十二部経・分経)も、皆是れ浮上を拭う故紙なり」とて、経どもをば、彼をのごい(=拭い)捨つるべきふる反古ぞ、と見破られたり。去る程に、此の分に申せば終(はて)しも侍わぬ程に、法花の事をば、先ず、おき(措き)申すべし。畢竟、天台と日蓮宗のかわり(替り=違い)は、観心(かんじん)の沙汰をいわで、唯御経がとうとしと、私なることをのみ云うが、日蓮宗也。[天台宗は][]万法一心(=すべてのものは心に他ならない)のさとり有りて、経の心を能く明むるが替りにて侍る也。

 

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