真言宗之事

 

20 妙秀。さては、はや龍女が成仏の事も聞き侍り。げにも龍宮界とて、水の底に国のあるなどと云うは軽惚(きょうこつ=軽率)なる事也。然れば法花の事をば、はや聞き得侍る。真言の宗旨は如何したる子とぞや。是は蜜(=密)宗とて、又、格別(=相違)のように聞くめり。

 幽員(=貞)。仰せの如く、真言は蜜宗とて、よ(余=他の教え)にかわりたるような[]ども、是も天台にちがう事も侍らず。仮令(けりょう=仮に)、天台は顕、真言は蜜(=密)と申すまでにてこそある。譬ば、手も握ればこぶし、開けば掌(なたごころ)と云う、其のちがいばかり也。にぎりてもひらきても、両手は十の指つらなりたる物なるごとく、顕にても蜜にても、仏法には惣じて十界より外(ほか)の事は侍らぬぞ。されども、われの(我の=独自の)宗のたてたる道は、ある事にて侍る侍るに、略して申すべし。しかれば、真言の宗旨も事広けれども、六大、四曼、三蜜と申す事、専ら也。さて、其の六大とは地、水、風、空、識、四曼とは大、三、法、羯(かつ)。三蜜とは身、語、意、是(これ)也。されども、いまだ此の分にては心得がたきまま、猶(なお)(くわ)しく語り申すべし。真言とは、大日覚王(=大日如来:真言密教の教主・宇宙の根本仏)と申すが、本尊とも何とも、有る程の事にて侍る。さて、此の大日、体(=本体)、相 =様相)、用(=働き・作用)と申す事を分別する也。惣じて、先ず、体と申すは、何にてもあれ、長短、方円とて、ながくもみじかくも、又は四方にも、かようの事をば、皆、相と申し、此の相のすわり処を体とは申す也。用とは、其の体、相より出る所作(=働き)の事也。しかれば、其の大日の体とは何ぞと申せば、地、水、火、風、識の六大也。土(=地)、水、果、風、の四は、はや、明らかに聞こえたれば、申すまでもなし。空とは何ぞとなれば、物を入れてもさわらず(=抵抗がなく)、無碍(むげ=障碍がないこと)なる処、是を虚空と申す。『大日経』にも「空は虚空に等しと知る」とて、空は虚空にひとしといえる処也。さて又、識とは分別を性とすとっ申して、「柳は緑、花は紅」(=『禅林類聚』経教章の語:禅的開悟の形容)と、しりわくるものにて侍り。又、心とも意とも心得し。心、意、識の三つは、一にて侍り。此の何れも離れぬ処を、『即身義』(=空海『即身成仏義』)には、「六大無碍にして、常に瑜伽なり」と云えり。無碍とは渉入自在(しょうにゅうじざい)とて、彼は是に入り、是は彼に入り、さわりなき也。瑜伽(ゆが=梵語のヨーガ)とは相応と云う心。相応渉入は、即是即(=円融不二・そのまま)の義と云いて、風は即ち是空、空は則(=即)ち識にて。六大、常に一つなる方、此の六を合わせて大日之(=の)体とは申す也。さて又、相と云うは、大、三、法、羯(かつ)の四曼と申す也。『金剛頂経』の説のごとくならば、一つの仏菩薩相好(そうごう)の身(=仏の色身に具わる麗しい形相)[なり]。又、其の形をえが()けるをも大曼荼羅と申す也。二には、三昧耶(さんまや)曼荼羅とは、即ち、其のもてる処の[幖幟(ひょうじ)]、刀剣、輪宝、金剛、蓮華などの類、是也。三には、法曼荼羅とは、本尊の種[](しゅじ=植物の種のようにすべての現象を生じさせる可能力)真言なり。並びに一切[の契]経の文義など、皆是、法曼荼羅と云えり。四には、羯磨曼荼羅とは、則ち、諸仏、菩薩の種々の威儀事業(=規律に適った起居動作)也と見えたり。此の四種曼荼羅は、皆たがいにはなれざるに依りて、(即身成仏義)の同じ偈()にも「四種曼荼羅は各[]離れず」とあり。さて、次の用とは、三蜜(=密)也。三蜜とは、一には身蜜とて、手には印契(いんげい)を結び、二には語蜜とて、口には真言を唱え、三には、意[]とて、心が、三摩地(まぢ)に住する事にて侍り。此れ等が、則ち、大日の体、相、用にて侍る也。

 妙秀。不思儀(=議)や。今の分は、皆人間の作法也。それを大日の体、相、用とのたまう。心得がたき事也。(あなたのご説明は)あやまり玉いたるか。

 幽貞。尤も(もっとも)の御不審也。さればとよ、大日とてとうとく云いなし、高く法流(=宗門の分派)のいただきにかかつて(=掲げて)、不動不退也などと申せども、其の大日と申すは、此の人をはなれてある事に侍らず。なおし(=猶し:更には)人のみにかぎらず、鬼畜、人天(にんてん=人間界と天上界のすべての者)、皆是、大日と申して有る程の者に、誠、虫けら、あのせせなぎ(=どぶ)の桃、ほおずきとやらんまでも、大日と心得れば、人は本より大日にて、六大所成(しょじょう)の心身(=六大からなる心身)をば体と云う。其の相なる四種曼荼羅とは、先ず、人間の姿かたち、是則ち、大曼荼羅なり。民百性(=百姓)は、すき()、くわ()をかたげ(=担ぎ)、武士は太刀、刀を携え、出家は袈裟、衣をき()、女は糸、針を持ちたるまでも、是を三摩耶曼荼羅と心得侍り。又たとえば、御床敷く思いまいらせ候と、一筆かきたるまでも、これを法曼荼羅と申す也。さて、人の起臥立居(おきふしたちい)、是皆、羯磨曼荼羅にて侍り。さて、用と申す三蜜とは何ぞなれば、手を挙げ、足を動かし、爪はじき一つするまでも、皆是、身蜜の印契にて侍り。(口からの)出入り[]一息、則ち、阿字の真言と心得れば、悪口雑言し、人[]言を云い、恨み謗(そし)る事は、猶以って語蜜の真言也。さて又、心には四方山(よもやま)の事を思う者也。或い[]物子()たみ(妬み)、又は、うし(憂し)、つらし(辛し)と思う事までも、意蜜とて、心の三磨(=摩)地に住したる也と云う事にて侍り。是を見玉え。大日は近来(=元来)とうとからぬ物にて侍るぞ。

 

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