妙秀。何とて、三界建立の沙汰を無き事ととは宣うぞや。

幽貞。云われ無き事と申し侍る謂れは、底からなき事を偽りて云い出したれば、更に跡先、首尾もせぬ事ばかり也。心を静めてよく、よく聞き玉え。三界と申すは、欲界、色界、無色界、是也。この三界を立つるには、先ず、須弥山と云う山を立っせずしてはかなわず。此の山は、いづくに有ると云えば、天竺、大唐、日本、此の三国より遥かに北にありと云えり。然る間、この三界を合わせて南せん武州と(いうの)も、此の北にある須弥山に対して云う事也。爰(ここ)を以て、偽りなる事をわきまえたまえ。故如何となれば、北の極めと云うは、北極と云いて、北斗の星の有り処を、天に於いての北の極みとす。然れば、此の世界にても、北斗を真頂きに見る所を、北の国の極みとす。されば、此の北斗の真下まで、日本の地より直に()のりをはかれば、一千三百七十一里に少し余れり。さて、須弥山の高さ、広さを聞かば、水にに入る事八万由旬、水を出たる事也八万由旬。されば、十六万由旬也。広さ、又、十六万由旬也。さて、此の一由旬とは、いか程の事ぞといえば、六町一里にしては四十里。但し、ここ元のごとく三十六町一里なれば、一由旬は六里廿四町也。この六里二十四町を八万合(=倍)すれば、惣て(すべて)五十三万三千三百三十三里十二町也。しからば、此の山はいかに北の極みにありとも、此の日本までも、はばかりて見えずしては叶うべからず。日本の事は申すにや及ぶ。此の世界にも七八十増倍程は余る大きさなれば、ある物ならば、何くにかくるべきや。世界の大きさをば、我が州の学文の上より、七千七百七十二里余と知る也り。然るに、五十散漫三千三百三十三里に余て、是程大なる山のある物ならば、何くよりも、など見えては有るべきぞ。是を以て、偽りと云う事を知り玉うべし。須弥、既になき物ならば、忉利天、三十三天、帝釈天のあると云う喜見城も、いずくにあるべきや。欲界の第一なる処、偽りなれば、色界、無色界も、皆、なき事を作り立てたる虚空の丈尺と分別あるべし。尚、此の上に大き成る虚説は、さて、此の須弥山は、いずくにすわりて有りぞと云えば、三輪にすわると云えり。三輪とは、金輪、水輪、風輪とて、此の欲界のすわる第一の下は風也。其の上は水、其の上は金也と云えり。かようの事こと、無理なる事とは申す也。何として、風の上に、此の重き水のすわりて有るべきや。但し、此の風は、堅密とて、きびしく堅固しといわば、それは、又、風と云うべき物にあらず。風は物の触れ通るに、障りなきを本とす。きびしくかたき物ならば、風とは何として名付け侍りそ。をかしき事にあらずや。さて、又、此の水の上は、金輪とて、重き金也といえり。あらあら、心たらずの仏の説きたまいようや。眼の前にある事、昔より一寸の金は千里の水にも浮かぶ事なきに、あしてや、是は厚さ三億三万由旬といえる、この金が何として水の上には浮かぶべきや。猶しも、偽りは三千大千世界といえる事を説かるる儀也。是をいかほどの事とか思い玉うや。千の須弥、千の日月を合わせて、小千世界と云う。又、小千世界を千合わせたるを、中千世界と云う。又、中千世界を千合わせたるを、大千世界とは申す也。惣じて百億の須弥、百億の日月といえり。一つの須弥さえなきに、百億の須弥、百億の日月は何くに有るべきや。

 

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