21 妙秀。さてさて、何事も聞きしにかわりて、あさまなる事哉(かな)。されども、あの金剛界の大日、胎蔵界の大日などと申す事、同じく両界の曼荼羅などと申すは、いとありがたき事のように聞きて侍るが、是も今のつれ(=類)の事とて(=同じで)侍るか。

 幽貞。金胎(=金剛・胎蔵)両部の大日と申すも別の事に非ず。人の色心(=肉体と心)を二つに分かち、色体の方を胎蔵界の大日と心得、心法の方をば金剛界の大日と習う(=理解する)也。色心、元より不二とて、二つなら子()ば、金胎不二の大日とも、此の身をさして申す也。其の上、金胎両界は、陰陽[]二とも心得玉え。男は陽なれば金剛界の大日、女は陰なれば胎蔵界の大日と云えり。又、両部の曼荼羅と云うも、是によそえて(=なぞらえて)の事也。金胎の二つは、右のごとし。さて、此の曼荼羅と云うは梵語にて、壇とも翻(ひるがえ=翻訳)し、輪円具足とも翻せり。此の心(=その意味は)すべて、あらうる(=あらゆる)所の仏菩薩羅列せるかたち、仏菩薩のみにかぎらず、地獄、餓鬼等の十界、一つもかけぬが曼荼[]なれば、輪円具足とは申す也。其の上、曼荼羅にも色々あり。或い[]経所説の曼荼羅(=経に説かれている曼荼羅)と申すは、経、論、尺(=釈)に説きつら子()たる仏菩薩の事、又は現図の曼荼羅とて、常に画像にして(壁に)かけおく。羯、三、徴(=微)、供、四、一、理、降、々の九会(くえ=九会曼荼羅)、十三大院等の両界の曼荼羅もあり。阿闍梨(=有徳の僧)処伝(しょでん)の曼荼羅と云うが、身をはなれて与所(=余所)に尋ねる曼荼羅にあらず。「真言は円壇にして先ず自体(=自分の身体)に置き、足自()り臍に至り、大金剛輪を成し、此れ従()り心(むね)に至り、当に水輪を思惟をすべし、水輪の上に火輪あり、々々(=火輪)の上に風輪あり」と、『即身義』の偈()にも見えて侍り。自体(=自分の身体)をはなれて何もある事なし。此の偈()の心を次に尺(=釈)して、「金剛輪とは阿字也。阿字は、則ち、地也。水、火、風は父(=文)のごとくしるべし。」是、明らかに聞こえたれば再び尺に及ばずと也。さて、「円壇とは空也。真言とは心大也」と云えり。両界曼荼羅も、皆、此の自躰(=自らの身体)にありとしるべし。大師(=弘法大使)の「夫れ仏法は遥かに非ず。心中にして即ち近し。真如は外に非ず。身を棄てて何をか求めん」(般若心経秘鍵)といえるも爰にて侍らずや。仏法とは、知(=)法身(=精神界の一切の意識作用)が、即是(そくぜ)心法也。真如とは、理法身(=物質界の一切の存在)が、即是色法也。此の故に、両部の大日というからが、色心の実相、理智の源底にて侍るぞ。惣じて、阿閦(あしゅく)、宝生、弥陀、釈迦、大日と云う五仏も、与(=余)所にある五仏にあらず。自身の上に五仏と云う事あり。五智とは、眼識、耳―、鼻―、舌―、身―、意―、末耶(=那)、阿頼耶(あらや)、無垢―と申して、九識の侍るを転じて五智となせる者也。第八阿頼耶識を転じては、大円鏡智と云う。是又、当方の阿閦仏也。第七末耶(=末那)識を転じては、平等性智と云う。是又、南方の宝性(=生)仏とす。第六意識を転じては、妙観察智と云う。西方の阿弥陀[也。第五身識を転じては、成所作智(じょうそさち)と云う]。是又、北方の[不空成就]釈迦也。第九無垢識を転じては、法界体性智(ほっかいたいしょうち)と云う。中央の大日と云うも是也。爰を以って、五仏と云うも衆生の外には侍らず。又、三十七尊と云う事を立てたるも(金剛界曼荼羅の成身会における三十七体の仏・菩薩)、自心の上の作用[]て、よそにはなし。薩、王、愛、喜、宝、光、幢(どう)、咲(=笑)、法、利、因、語、業、護、牙、拳、是を十六大菩薩と云う。嬉、鬘(まん)、歌、舞、香、花、燈、塗、是を八供養と云う。鈎(こう)、索、鏁()、鈴(れい)、是を四接(=四摂)とし、金、宝、法、羯、是を四波羅蜜とす。是に右の五仏と加えて、惣合三十七尊と云うなり。さて、是を自心の上の作用也と云う事、一つ一つ申し侍るに及ばず。譬ば、愛を起こせば愛菩薩、欲を起こせば欲菩薩、歌は歌菩薩、舞は舞菩薩、と云うがごとし。此れ故に、「[本覚心法身の]妙法の心蓮台に常に住するを、[本来、三身の徳を荘厳し]、三十七尊の心城に[帰命したてまつる](空海『即身成仏義』)といえるも、爰にて侍り。

 

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