22 妙秀。「鬼をばくらがり(暗がり)につなげ」と、世の常に若しるつ事をば思いしられて侍(さぶろ)う。日比(ひごろ)、とうとく思いたる事も、此の分に明か[]内証[]聞かば、殊勝げ(=勝れているように)もなくなれり。しかれば、右に承りし識を転じて知となすとは何としたる事にて侍るぞ。

 幽貞。奇特(きどく=殊勝なこと)なる事を尋ね玉う物かな。誠にてん()ずるとは申せども、何とするが、てん()ずるにてあると云う事をば、人ごとに(=誰も)しらず。されば、先ず、たとえば、凡夫の妄想の念をば意識と名付け、仏法のさとりに観恵(=洞察)をば妙観察知(=智)と云う。御身の上に取っても、地獄があるか。おそろしや。極楽があるか。たのもしや。是は善、是は悪など、思い玉う程をば凡夫の意識と云い、さとりをひらきて、われわれ[]思う心の外に、何(いづ)くに地獄、極楽あるべきぞ。善悪も心のわざ()なれば、二つにあらず。此の身は元より仏也とみひらく(見開く)ようなる処をば、妙観察智とも、又は西方の阿弥陀とも心得る也。さてさて、我が宗貴理師端の教えには、遥かにちがいたる事かな。

 妙秀。さては、てんずるとは、さようにさとる処を申す候也()。さればとよ、貴理師端の教えにこそ、神もなく仏もなし。地獄も天堂もなしとのたまうとのみ思いまいらせしに、結句、其のうらにて、きりしたんには地獄も極楽をもあるとのたまうに、仏法の内証(=真意)、我が心の外には、神も仏も地獄も極楽もなしと申さるる事よ。折々、知識達(=仏法の教師たち)の、「妙秀、よく聞き玉え。地獄と云うも極楽と云うも、神と云うも仏と云うも、御身の思い玉うような事にてはなきぞ。さり乍(なが)ら、其の悟りまでは至りがたくをはせんまま、念仏を申して居給え」と事もなげに宣いしも、今こそ思いしられて候(さぶ)らえ。しかれば、はや、識をてんじて智となすと云う事は聞き侍るが、八識の九識のなど申す事、たしかに(=はっきりと)わきまえがたし。尤も(もっとも)、御宗旨貴理師端には成りまいらせんずれども、其の前に、とてもの事に(=このついでに)、仏法、神道の事を、よくきき、きわめまいらせたく思い侍る。智識達(=仏法の教師たち)へ申せば、秘事がらせて(=秘事のように見せかけて)、さように有りやうに(=そのようにありのままに)宣わらず故に、今まで本の事(=本当のこと)を知[]ず、色々にいいすかされ(言い賺され=言い騙され)、年月を送りし事の悔しさよ。猶、其の識の事を悟[らせ]玉え。

 幽貞。識の事と申すは、仏法に手も家々に替わり、其のあつかい色々むつかしく聞こえ侍り。されども、尋ね給う事なれば、聞きまいらせし分を略して一通り申すべし。惣じて、識の数も大、小乗に依りてかわり侍り。小乗は六識分と申す也。其れと申すは、眼識、耳―、鼻―、舌―、[身識]、意―の六。眼には色を見、赤白を知る。耳には声を聞き、鼻には香り、舌には味、身には寒熱等を覚え知るを、五識と申す。さて、此の上に意識と云う物は、五根にかかわらず、惜しき、ほしき、悪しき、いとしきなど思う心が、意識と云うものにて侍り。此の六識分のさとりようは、目も耳もいまはあればこそ、色をも声をもしれ。此の五根も死してなくなりては、しるべき便(たよ)りもなし。第六の意識も、たとえば、雨露の恵みを受けてさかうる程は、「柳は緑、花は紅」とふるまえども、枯れれば何もなきごとく、人も死[]ば無心になるぞと云うが、六識分のさとりにて侍り。権大乗法相等には、八識をたてられたり。其の八と申すは、今の六に、第七識末耶(=那)、第八識阿頼耶(あらや)、此の二をそえて立てたり。その阿頼耶と云うをば、爰では(=漢字文化圏では)根本意識と云う。是則ち、十二因縁の現在の五果の初めの識といわれたる物、一滴挓(=託)胎の初めなれば、根本意識と云う。諸法の根源、諸法の本地も此の滴の外に更になしと云えり。則ち、是が第八識と也。さて、第七識末耶とは、爰には(=漢字文化圏では)翻して(=翻訳して)意と云えり。是は何としたる物ぞと云わば、根本意識と云う阿頼耶[]の無心、無念なる処より、忽然といて起こる業識元初の一念(=最初の一刹那の阿頼耶識)、此の阿頼耶識の無心、無念を、本の事ぞ(=根本である)と思うが、七識と云うものにて侍る也。しかれば、七識と云う物は、自体ある者にあらず。申さば、八識の用にて侍り。此の八識分の宗の悟りようは、「一念()生ぜず。(これは)即ち仏に至る故なり」と香象大師は釈せられたり(『華厳五教章』巻第一)。是則ち、一念もささ子()(=起こらなければ)、其の時、仏性があらわるるとの儀(=義)也。さて又、実大教[]の花(=華)厳、天台等(=華厳・天台・真言・禅)は、此の八識の上に、第九識菴摩羅(あんまら)、ここには(=漢文化圏では)無垢識と云うを立てられたり。されば、此の体(=本体)は何(いづ)くをさして云うぞと申せば、惣じて八識の上はあるべきにあら子()ども、実大乗は猶又、高く云いあげんが為に(=自説を高くほめそやすために)、第九識を立てたると也。其の証拠には、『如来功徳荘厳経』(『唯識論』巻第三)に「如来無垢識は、是れ浄無漏界なり。一切の障を解脱し、円鏡智と相応す」と説かれたり。無垢識とは今申しつるごとく、第九識菴摩羅(あんまら)の翻名(ほんみょう=翻訳語)也。円鏡智は、又、八識相応の智なるに、無垢識を以って円鏡智に相応と云う時は、是則ち、第九識も第八識の内にこもると云う事、分明に侍り。猶又、『大乗一覧集』[]云うにも、此の儀を決せん為に、『解深蜜経』を引きて、「この阿羅耶識は、是則ち、真如にして、自性を守らず、染浄の縁に随う。合せずして合す。能く一切の真俗の境界を含蔵す。故に蔵識と名づく。明鏡の影像と合せずして、影像を含むが如し。此れは、有和合の儀に約するなり。若し不和合の儀ならば、即ち躰は常に不変なり。故に真如と号す。合不合に因って其の二義を分かつ。本、一真如にして湛然不動なり。若し阿頼耶識は是即ち如来蔵と信ぜずして、別に真如の理を求むることあらば、像を離れて、鏡を覓(もとむ)るが如し。即ち是れ悪恵にして以って未だ不変と隨縁とを分かち了せず」と見えて侍り。されば八識の境界に動ぜられぬ処は九識真如なれば、阿頼耶識の外に九識をも尋ぬべからず。『花厳』(=華厳経)には、「七転識を以って、皆是本識の差別功徳とす」と見て侍り。此の心は、前の五識も第六意識も第七未(=末)那識[]、此の七つは、皆是本識の上の差別功徳にして、別の物に非ず也。本識と云うのが、第八阿頼耶識の事也。差別功徳とは、たとえば、目にて色みしれば、眼識と云う。第六識に有りて法に縁すれば(=概念を対象とすれば)、意識といわるるに依りてこそあれ。其の体(=本体)は、唯、阿頼耶識ぞと云う儀(=義)也。玄奘三蔵は「法位第八識は、即ち第九識と為す」と云う。是も八識の外に求めぬ第九識也。円悟と申す禅の祖師も「納僧の受用、多子無し。八識の田中に一刀を下す」といわれたり。是も八識の境に合する処を絶断とて切ってすつるが、第九識と心得たると見えて侍り。是又、第八識の作用にして、別の物にあらずと心得玉え。さて、此の真言宗は、なお此の九識の上に、又、一[]一心識などと云いて、十識、十一識、無量の識を立ると云えども、是皆、彼本識の差別功能(=先ほどの根本識の分化した作用)にして別の物にはあらず。惣じて、是に於いて、仏法に申すなる心、意、識の三を、よくわきまえ玉え。此の三は各(おのおの)三体一とで、名は三なれども其の体は一也。『毘婆沙論』に、此の義を明らかに、たとえを引きていわれたり。「心、意、識、何の差別が有[らん]と問た[]。差別有ること無し。即ち心は是れ意、意は即ち是れ識。皆同一の義なり。火を火と名づけ、炎と名づけ、亦(また)名づけて熾と為すが如しと答えたれば」、用に依りて名は別なれども、体は唯一つにて侍(さぶら)う。此のたとえの心をさし、火なれども、もえぬときは火と云いて、唯火まで也。もえたつときは焔(えん)と云う。是、ほのお也。猶又、ほのおの高く上がる時は、熾()と云う。熾は盛也とて、さかんなるかたち也。其のごとく、何心もなうして(=特別な心がないときは)、心と云い、念のきざすときは(=思念が現れ出たときは)、意と云う。なおしも、緑、紅と、こまかに物を分別するときは、同じ心ながらも識とぞと云う事なれば、心、意、識と云い、名は用に依りてかわりたれども、其の体は二もなく三もなしと心得玉え。識分の沙汰を略しては申しがたく侍れども、先ず形の如く語り申す也(=先ず一通り語りました)。これいても、大方は聞こえ侍るべし。

 妙秀。識の沙汰、委(くわし)く承りて、今こそ不審もはれて侍(さぶ)らえ。しかれば、又、真言の阿字観と云う事は、何としたる事にて侍るぞ。

 

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