23 幽貞。其の阿字観と申すは、出入りの息を観ずる事(=出入りする息を観察すること)にてあり。

 妙秀。ここに不審有り。真言に云う、「阿嚩囉訶失(あ・ば・ら・か・けん)」とは、地、水、火、風、空、此の五大の種也。されば、阿字は水(=地?)大なれば、息の体を観ずるに、地大の種、阿字を取りて出したる事、いかなるいわれにて候也()

 幽貞。御不審尤も也。先ず、息の体を観ずるに、地大の種を取り出せるに、あまたのいわれ侍る中に、先ず、阿字は有る程の(=すべての)音色の初め、口を開けば、即ち、「あ」とひらく故に、阿字は息の体として観ずると也。其の上、此の阿字を尺(=解釈)するには、堅、湿、燸(なん)、動、無碍(むげ)、了別と云う事侍り。息風とて、此の息の風には六大がみなこもりたると云えり。夫()(=そもそも)、堅とは、体は打っても砕けず、切ってもきるると云う事もなき処を、地大のかたき方にとられたり。湿とは、息にうるおいの有りて、しめる方をば、水にとり侍るとかや。燸(なん)とて、息あたたかに、かわく心(=意味)あるをば火に取る(=解釈する)と也。動とは息の体、元より風にて、うごきはたらくせい(精=力)あればなり。無碍(むげ)とは、息の体は物にふれて(触れて)さわり(=支障)なければ、空也と云えり。了別とは、息の体は、元より無分別なれば、其の処を本知(=智)と云うとぞ。惣じて、此の阿字と云うは、自心(=自らの心)をしらしめん為と也。其の自心と云うが息也。息と云う字は自心と書けり。此の故に、文(=空海『十住心論』巻大一、序)に「如実に(=ありのままに)自心を知る」と云う事を、心にかけて観ずると也。実のごとくしれと也。此の息たゆれば、命もつき、分別も、動きはたらく情(精=力)も、なくなるときは、息の外に心をも尋ぬべからずと也。『大日経』に、「阿字は第一命にして、[]情非情に遍せり」(=生物・無生物に行き渡る)とある文も、有情、非情の自体をかかえたる(=支えるのは)は息也と云う也。又、同じ経の第十に「命とは風也。想也。想とは念也。此の如く命根は出入の息想也」とあれば、命も心も息の外になしと云う心也。但、息は用也、体は心性也といえども、それは一性にて、人に不審をなさせじが為也。其の故は、既に空[]言うは即身成仏と心得るが面目(=本来の姿)にて侍れば、何ぞ、色となる息の外に心仏と尋ねんや。されば、阿弥陀と云うは、意識の妙観察智と転じたる者也。然れば、意識と息とは一体也。此の故に、阿弥陀の種 (キリク=種子)字には、 (カ=訶)[]以って体とせり。阿(=訶)字は風也。阿弥陀と云う事を翻して無量寿と云う。此の無量寿とは、即ち、息也。今、『大日経』の文は、此の心にかなり。阿弥陀而巳(のみ)にあらず。地蔵、観音と云うも、此の息風、阿字をはなれず。『仏説地蔵経』にも、「延命菩薩(=地蔵菩薩)は、中心不動、阿字の本体」とあり。是則ち、地蔵というは、地大の事としるべし。別にたうとき物にあらず。息風にては堅の徳用(=堅の働き)也。又、観音と云うは、一切衆生の干栗多(=駄)心とて、人々の胸中なる赤肉団、是が真の観音と云う也。其れに依って、此の観音の左手には未敷蓮[]とて、つぼめる蓮華のかたちを持ち、右には開華の勢いとて、開ける体をなしたるは、是則ち、胸の内なる肉団の蓮華が本の観音ぞと云う儀也。泊瀬(はせ=長谷寺)、清水の観音は、是をしらすべき方便也。されば、此の息風は胸中の連台(=蓮台)より出でて、口舌唇に当たりて音声をなせば、阿字となる。息は即ち観音也。此の故にこそ、観世音とは、世の声を観ずるとは書き侍れ。世の声を観ずるとは、法界にみちふさがりたる風(=世界に満ちている風)の事也。是を自性清浄如来とも無量寿とも申す也。前に申したるごとく、阿弥陀と云うも息風なれば、観音と阿弥陀は一体異名、即ち、因果不二の儀と云えり。爰[]以って、地蔵、観音、阿弥陀とても、皆たうときものにてはなし。唯、息風を指して云う也。息を仏とも、心とも意とも識とも、心得たる斗(ばかり)也。あな浅ましの迷いや。出入りの息の風は、無心、無念にして、何たる事に縁じても、分別、智恵のつくべきものに非ず。又、是、本来として、自ら有りし物にもあらあず。此の風にかぎらず、四大、天地を此の如くあらわせば、はからい玉ふ御主まします。是をば、此の貴理師端より外はしらぬこと心得玉え。其の故に、仏法には、地獄、極楽、後生の沙汰をば、極めては(=究極的には)無き物にする也。真言の事もあまり長く侍れば、又、別宗の事を語りまいらすべし。

 

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