26 「僧、逍(=趙)州に問う。如何なるか、是、祖師()西来の意。」(=達磨た西から来たのはなぜか)

(べんず=説明する)、意は有に似て無き物で候。

[して](=問い詰めて)曰く、無き証拠を弁じ来たれ。

弁、頭上より脚舌まで、全体を波(=皮)は皮、肉は肉、骨は骨、髄は髄、とさき(割き)分けて見れども、意と云う物は色、形もなし。眼にみぬのみならず、耳にも聞こえず、花にもか()がれず、舌にも味わ[]れず、身にもふ()られず、詞(こどば)にも求められぬ(表現できないもの)也。是がなき証拠で候。

[して]曰く、無心ならば、おしい(惜しい)、ほしい(欲しい)、いとおしい(愛おしい)、かなしいと思うののは何物ぞ。弁じ来たれ(=説明してみよ)

弁、意はある(有る)に似た物で候。古人は云う、「有にして有に非ず、無にして無に非ず」(出典未詳)。ある(有る)にも着(=執着)せず、無にも着せず。是もあるに似て、なきと云うた語也。又、古人は云う、「心法に形無く、十方(=四方)に貫通す」と。形はなけれども、唐土、天竺の事をも、居ながら分別する程に、十方に貫通すと云うぞ。(心は)あるに似て、ないぞ。又、古人は云う、「心法は水中の月の如し、猶(なお)鏡上の影の如し」と。水があればこそ、人の形のうつせ。そのごとく、人の五体六根があればこそ、心と云うものもあれ。別に心と云うてはなし(=心という実体はない)。是も(心は)有に似てなし(無し)。釈迦も、「過去心も得べからず。現在心も得べからず。未来心も得べからず」(金剛経の句)と説き玉うぞ。三世(=過去・現在・未来)を得べからずと云うたぞ。此の如く、三世無心とさえ、とりたらば、何れ(いずれ)輪廻もあるまいぞ。色相(=肉体)のある間は、念と云う事も、おこらいではかなわぬ物也。たとえば、念を起こしたりとも、明眼(=悟った人)の上にては(念は)輪廻とはなるまいぞ。三世無心と悟る処が、干(=肝)要也。又、古人は、「心有れば則ち曠劫(こうごう)に沉輪(じんりん)を受く。心無ければ則ち刹那に正覚を成ず」(『宝林伝』梁武帝碑文)と。心有(=心がある)とは、迷いたる凡夫の事ぞ。曠劫とは、だん久しく長き事ぞ。沉輪(=深く沈むこと)とは、生死[]海に沉輪はてない上ぞ(果てしないことだ)。無心とは、三世無心を悟った上ぞ。刹那とは、髪一筋切る程の間の事ぞ。はやき(=速やか)と云う心ぞ。成正覚てゃ、悟ったと云う事ぞ。

(=趙州)云う、「庭前の白樹子(=柏樹・かしわぎ)」と。

弁、白樹(=柏樹)も心が有るに似て、なき物で候。

[]て曰く、草木の上に意あるににて、なき証拠を弁じ来たれ。

弁、柏樹(はくじゅ)にかぎらず、一切草木は、悉く(ことごとく)、春は障子、夏は長し(=成長し)、秋は収め(=収穫し)、冬はかくし(=貯蔵し)、四時おりおりを知って生、老、病、死あり。又、水をそそぎ、うえをかえば(=植えかえれば)、よろこび、花咲き、緑をいだすぞ。又、切ればいたむぞ。是は(植物に意すなわち心が)有るに似たるぞ。さて、根、茎、枝、葉を打ち破りて(中を)見れば、中に花の種も緑の種もなし。是は心がなきぞ。是を以って、「西来(さいらい)意」と問うたに、「柏樹子」と、答える話に直指(じきし)せられて(=直截にしめされて)候。古人の哥(うた=歌)に「桜木を砕いてみれば花もなし、花をばはるのうちにもちける。」(一休禅師『二人比丘尼』)は、此の古則(=庭前柏樹子という公案)によく叶いたるとの先師以来の沙汰(=意見)にて候。

下語(あぎょ=門弟に与える師匠の見解)、「柳は緑、花は紅」。是も柳の緑も花の紅も、柏樹のごとく無心の者也。其れ程に、草木も人心も有るににて、無き物なる故に、此の句を柏樹子と云う処に付けたぞ。畢竟、三世無心と云う(ことが)肝要也。

[して]曰く、此の如くみる時は、無の見(すべては無であるという見解)には落ちまいる。

弁、無の見には落ちで候。其の故は、有るものを無しと云う、無き物をあると云うが、無の見也。心と云う物は元来なき物也。無き物をなしとみるは、正知正見[]て候程に、無の見には落ちまい也。是を見給え。申すに及ばぬ事ながら、心と云う物は、無き物に是もすみて(=澄まして)侍るは、仏法は何(いず)れも、此の分にめずらしからず。是が又、万法の話の蜜(=密)参の物にて侍う。されども、よみ(読み)まいらするに及ばず。是も是もと申せば、時がうつり侍るままに、御目にかくるまでもなし。惣村じて、古則(=公案)と申すは、一則も千七則も、趣(=趣旨)は同じ事と聞こえたり。一心をさえ、よく明むれば、それにてすむ事にて侍り。此の故に、明州の大海(=梅)[]法常禅師と申せしは、馬祖に逢いて、「如何なるか是れ仏」と問いしに、馬祖は、「即心即仏」と答えられし。此の言下(げんか)に契当(かいとう=大悟・開悟)して、直ちに大梅山(だいばいせん)に入りて、白眼にして他の世上の人を見し大悟大徴(=徹)の人たりしは、数多(あまた)の古則を見るに及ばぬ証拠にて非(あら)ずや。仏法には、一心をさえも明むれば、何れの宗にてもこれが極めにて侍るぞ。此の一心が、即ち本分(=本来の姿)、此の一心が、即ち保知家、此の一心が、即ち地獄、此の一心が、則ち天堂にて侍ると云えり。畢竟して、此の一心が則ち無と云う処にて、万事が留(どど)[まり]侍るぞ。「心が有れば則ち曠(=広)劫にして、沉輪を受く。心が無ければ則ち刹那に正覚を成ずる」とある事も此の事也。

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