27 妙秀。いや又、禅にもさようにばかり申されぬと承れ。五祖[]縁演に、「如何なるか是れ曹洞宗」と問うたれば、答話に、「馳書(=送った書)は家に到らず」とありしも、曹洞宗の行李(あんり=一切の日常的行為)は落居(=問題の決着)を嫌う処也。夫れ(それ)に依って、有無に落ちぬを本とす。いかなれば、さように無とのみはのたまう(宣う)ぞ。されば、此の宗の五位君臣の沙汰といえるも、中を本とせる処也。是をば、いかが心得申すべきや。

 幽貞。其の御事也。曹洞宗などは、有無の落去(=居)をきらわれたり。さて、禅法の眼からは、是がよきにて侍るぞや。座頭のこせ事(=洒落た言葉)などを云うがごとく、色々の法門だてをば云いまわれども、今時の会下(えげ)(=寺を持たず師家の許で修行する門下僧)は、万法一心の悟りにはくらく侍る故に、月をおがみ、日を拝み、愛岩(=宕)詣り、清水もうでなど云う事まで、愚痴の尼・入道にかわらず。あなたこなたとする事は、有無の落去(=居)をきらい、中を守るの威徳(=立派な徳)にて侍るや。そのかみ(=その昔)、庵(いおり)を焼きたりしごとき婆子(ばし=老婆)の今もあるましかば、かようの僧には宿をもかさじ物をと、大徳寺、妙真(=心)寺などよりは、世におかしき事に申さるる也。次には、五位君臣の沙汰と申すは、元より中をおり(=取り)、さまざま欲せざる一理也といえども、其の中とは何ぞ、といえる事をば識得(しりえ)せで、ただ有無の落[]をせざる、是を中の本意と心得るは、ともにはかるにたらず。袈裟をかき(=垣:隠れ蓑)にして、僧と云いて立る程の事にてあるぞと。仏心宗(=禅宗)の眼からは申さるる也。されば、僧、有り、曹山に五位君臣の旨訳(=訣:宗旨や奥義)を問うて侍るに、[]山、「正位は即ち空界に[属す]、本来無物なり。偏位は即ち色界なり、万(よろず)の形象有り。偏中正と[(=は)]、事を舎()て理に入る。正中偏者(とは)、理に背きて、事に就く。兼帯とは、夏(=冥)に衆縁に応じて、諸有に堕せず、染に非ず偏に非ず。故に虚玄の大道、無著の真宗なりと曰く」と答えられしに、中と云う物者()、よくきこえて侍るが、此の内にも神へ参れ、仏を祈れと云う事は見え侍らぬぞ。此の答話の心は、先ず、正位とは則ち、本位とも見玉え。其の本の位と云うが、則ち、空界也。空界とはなき処の事にてある故にこそ、本来無一物とはいわれて侍れ。しかるに、無に落去(=居)するが曹洞宗にわろき(=悪き)といわば、先ず、此の宗祖なる曹山をから檳出(ひんしゅつ=教団から追放すること)し、血脈のふた(札=伝法の系譜書)よりも削り捨つべき事にて侍り。「偏位は即ち色界、万の形象が有る」とは、色、形ある物は、皆是本位に非ずと云うを偏位とは云えり。「偏中正者(=は)、事を舎(=捨)て理に入る」とは、偏が中正の位に帰すと云う義。それとは、色、形をはなれて、唯(ただ)(=空無)に入る事。焼けば灰、埋(うず)めば土となるべし。「正中偏者(=は)、理(=真理)に背きて事(=事象)に就く」とは、正中が偏位になると云う義。是則ち、正位(=真理)の空より、此の色、形は出たるぞと云う心。「兼帯者(=は)、冥に衆縁に応じ、諸有に堕せず、染に非ず浄に非ず[正に非ず]偏に非ず。故に虚玄の大道、無著の真宗なりと曰く」とあるが、即ち、中と云う物の体(=本体)也。有無に落着せぬが中とのみ思うは、其の作用を取って、体をしらぬが故に、それは、「七日語りは尼か法師か」のつれ(=類・たぐい)で、夜が明け侍らぬぞ。此の兼帯と云うは、一心を指しての事也。此の一心は、今は空、有を兼ねて、縁に応じて、地獄、餓鬼の菩薩仏果に至る(まで)と、色々の念慮をおこれども、それがそれ(=実体)にもならずと云う処を、「虚玄[]の大道(=深遠な心性)、無着の真宗(=禅宗)とは申し侍り。即ち、是が法華にて妙法蓮華と云いたる物の事也。さて、畢竟して、此の心ある物かと云えば、「心有れば、即ち、曠劫に沉輪を受く。心無ければ即ち刹那に正覚を成ずる」とありつるごとく、無心、無念としるを成仏と心得たる物にて侍り。此処に至りては、祖意も教意もかわる事は侍らず。惣じてが、祖教一致にて侍り。此の心を梁山の[]観禅師(=曹洞宗五祖)は、「金烏(きんう)東上すれば、人皆尊ぶ。玉兎(ぎょくと)西に沉(しず)めば、仏祖も迷う」と頌(しょう)せられたり。金烏とは日輪にて、是を教意にたとえ、此の教えに依って、心の迷いをはらす方を、日出でて人が貴ぶに比し、玉兎とは月にて、是を祖意にたとう。月の入りは、仏祖も迷うと云いたるが、悟りの心なければ、仏祖とても何ならず、といわんが為也。されば、日出でて、月の入りて、迷惑すると云うは、詞はかわれども、心は同じ事にて侍る故に、祖教一致の頌(じゅ)と、是を申す也。其の一致処と云うが、「我が心自ら空なり、罪福に主は無し」(『観普賢経』)とある処にて、仏法は万事休したる物也(=万事尽くされている)。仏法にて無と落着せぬは、仏とも法ともしらぬ人にて侍り。但し、此の無を知りてよりは、何と云っても同じ事と思と(ママ)故に、あらそわぬ心が出来て、あると云う人には、あう中々(=うん、そうです【日葡】)、後生はある事にて侍うといい、又、無しと云う人には、その事也、後生と云って、何が跡に残らんかなと云いて、柳の糸の西へも東[]も風のままなるようにあるを、禅の至りたる上(=至上の境地)と思う也。真正の見解を用得たる人は、袖のふり合うもみゆべき(=見るべき価値がある)と云う。本分の無を、よく知り得てからの事也。兎に角に、禅とも申せ、教とも申せ、教とも申せかし。仏法は何れも、か様に無に帰したることは、勿躰なき(=不都合な)事にあらずや。

 

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