妙秀。御物語のように、仏も元は凡夫にておわせし事は、其の分也。されども、是は衆生済度の方便の方便とて、我等をすくい玉わん為に、かりに生死涅槃の相を顕し給えども、久遠を思えば、五百塵点劫とも尚限らじ。本来にて(仏に)まします。是を経には、「我仏を得て自()り来(このかた)。経たる所()諸劫数。無量百千万。億載阿僧祇」とも、又は「衆生を渡せんが為の故。方便して涅槃を現す。而も実には滅度せず。常に此(ここ)に住して法を説く」とも説き玉えり。猥(みだ)りに人間とばかり見玉うこそ、僻事(ひがごと)にて侍れ。其の上、又、地獄も天堂もなしとばかり心得事は誤り也。仏法には断、常の二見とて、殊の外嫌う事にて侍り。断見とは、なしとのみ見る事、常見とは有るとのみ見る事也。是を離れて、中道とて有無の界に安心をすえ(据え)候事を、無上の悟りとは申す也。

幽貞。奇特に、経の表を、一往は能く心得玉えり。されども、其の上を能く糺せば、其の斗(はか)りも辺もなく(=無料無辺)、久しき仏と申す者こそ、因位とて、人と申せしよりも猶(なお)うと()からぬ者なれ。又、中道を護るを仏法の極めとする事、是又、委(くわ)しく語り侍るべし。先ず、過去久遠の昔より、はかりもなく久しき仏にて侍ると申すことは、則ち、虚空とて、何もなき物也。是を禅にては本分とも仏性とも云い、天台には真如とも云う也。仏法の心は、ありあとし有る物、皆、此の空より出で、又、空に帰すると見るが故に、釈迦にかぎらず、今の御身もわらわも、皆昔よりの仏と云う者は、即是空(そくぜくう)とて、何もなき事にて侍り。人の五大、五輪と申すは、地、水、火、風、空にて、色心不二とて、身も心も二つにらずと云えども、分けて申す時は、地、水、火、空の四大をば色相とし、空の一つを心法と心得る也。此の故に空と云う。其の言葉は替われども、其の指す所の体は一つ也。経にも是を、「我が心自ずから空にして罪福に主(あるじ)無し」と説けり。釈迦の内証(=内心の悟り)は、過去久遠劫(ごう)よりの仏也。この空のことにて侍り。とうと()からぬと申すも、此の事也。有無をはなれて、中道と云う事もよく心得ぬ上には、別の事のように侍れども、中道と云うは、即ち、心の異名にて侍り。或る時は虚空と云い、或る時は仏性と云い、或る時は心、或る時は中道と申す也。是、涅槃経には、「虚空は是れ即ち仏性」と、「仏性は、是れ即ち如来」と説かれたるを、妙楽大師は、「虚空も仏性も、唯(ただ)是れ中道の異名而巳(のみ)」と釈せられたり。爰(ここ)を以て、有無の中道とは、唯(ただ)無なる者の唐名と心得るなれば、虚空の空、仏性の空とて、二つの空を心得ること誤りにて侍る。妙楽の釈に、「虚空も仏性も、唯(ただ)是れ中道の異名耳(のみ)」と有るにて、二つならぬ事は能く聞こえたり。されば、唯(ただ)仏性と申すは、此の無なる事を知るべき道を、八宗、九宗と分けたる斗(ばか)り也。この無と云う事さえ知り侍れば、何れ(いずれ)の宗旨も隔て(へだて)なき者也。「分け上る麓の道は多けれど、同じ雲井の月を見る哉」。此の雲井の月とは云うは、真如の月、真如の月と云う()が、即ち虚空仏性とて無き物の事也。

 

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