八宗之事

 

 妙秀。さりとては、か様に仏法の奥深き理を御身の上に知り玉える事、誠に驚き侍る也。仏法には、元より権(ごん)、実の二つあり。権とは、仮に面には仏もあり、地獄もあり、天堂もあり、と教え、実とて、真には地獄、天堂の沙汰もなきぞと、時としては、知識達の仰せられし事をも、今こそ能く弁え侍れ。さて、八宗の事は如何に聞き玉えるや。

幽貞。先ず、八宗と申すは、俱舎、成実、律宗、法相、三論、華厳、天台、真言、是也。此の外に、禅、浄土を加えて十宗、一向宗、日蓮宗までをも加えて、十二宗とは申す也。是を大乗、小乗とお()し分けて、大乗を尚理深く、とうときように用い、小乗をば理も浅く、とうとき事も薄きように申す也。然れば、俱舎、成実、律宗をば、一向浅近とて、小乗と定められて侍り。されば、俱舎宗と申すは、世親菩薩の作、『俱舎論』三十巻を以て立てたる者也。三蔵教有門(=三蔵教の中の有の立場)の修因感果の相を談じたり。修因感果とは、爰(ここ)にて菩薩の種を植えれば、当来に其の実を結びて成仏するぞと心得侍る也。此の故に、全く大乗の心に非(あらず)と也。成実宗は、訶梨跋摩(かりばつま)菩薩、成実論を作るに依って立てたる宗と承る。玆(この)論の巻数は、或いは十六巻とも、又は廿巻とも申す也。成実と申す名の心は、成は納入と申して、悟りに入る人にかかり、実は所入とて、悟られ入るるの方に付す也。悟られいらるるの実は、何そなれば、実儀(=真実の事)なり。実儀とは、即空の義にて侍り。されば、諸法の空也と決定し、覚方(おぼゆる)が、成の字の心也。昔は是をも大乗のように申しすれども、天台大師、嘉祥(かじょう)大師など、小乗と決せられたると也。さて又、律宗と申すは、戒律とて色々に戒めを守る事を宗とせり。其の戒行、事広(=非常に広い)と云えども、極まる処は唯(ただ)二つ也。一つには、止持の戒とて、五戒を犯すべらからずと止める方を申す也。二つには、作持の戒とて、広くは、諸善()奉行(せよ)と申して、諸々の善事を行えと云えるつれ(連れ=類・種類)の事。是を作持の戒と申す也。

妙秀。されば、爰(ここ)に不審なる事侍り。今まで仏法には後生もなきぞと云いながら、無き物ならば、五百戒の、二百五十戒の、十戒の、五戒の、などと申す事は、貴き道(=貴き世界)に至るべき為と見たり。されは、後生の助かる道もあるべしとおぼえたるは如何。

幽貞。仰せのように、戒律の沙汰を申す時は、仏法にも後生の助かり有るように侍れども、全く以って、さようの事にてはなし。仏法に浮かび助かると云う事は、嬉しき事も悲しきこともなきぞと教ゆ。是を真如、平等の台(うてな=高い所・玉座)に至ると申す也。此の故に、極め極めては、善悪不二、邪正一如と云えり。されば、『智度経』にも、戒の沙汰をなして、終わりには、「一切の法皆因縁に属す。自性無き物なり。諸善法は皆、悪に因()りて生ず。若し悪に因りて生ぜば、如何が着す可き。悪も是れ善の因なり。如何がが憎む可き。是の如く思惟せば、真に諸法実相に入る。持戒破戒を観るに、皆因縁に従いて生ず。故に自性無し。自性無きが故に畢竟(ひっきょう)空なり。故に着かず。是を般若波羅蜜と名づく」と云えり。般若とは空恵と云いて、無心、無念の知恵也。波羅蜜とは、到彼岸と申して、彼岸に至る事。彼()のきし()とは即ち、真如。なにもなき物になるを、到彼とは申す也。仏法に後生の有るに依りて、戒律を定めたるにあらず。『大蔵一覧集』と云わるる物にも、「既に死生之(輪廻を)免れる可き無ければ、安(いずく)んぞ仏戒之持す可き有らん」と云える頌(じゅ)の下に、伝燈と云わるる録を曳(ひけ)り。其の理は、或る時、薬山と云わるる祖師、高沙弥(こうしゃみ)に向かい、「你(なんじ)は何れの処に去るぞ」と問われしに、沙弥、「江陵府と云う所に受戒し去らん」と答えければ、薬山、「受戒は何の用に立つ物ぞ」問しに、「生死(=輪廻)を免れる」と答えしかば薬山、「受戒をもせず、又、生死の免れるべきもなき一人(=本来の自己)あり。汝是を知るや」と有りしかば、沙弥答えて云う、「然らば、御身は何とて仏の戒をば用い玉うや」と云いしに、薬山、「此の饒舌の沙汰、さように口をたたきては、奇特に唇も歯もつづく事よ」と叱られて、其の時、本心に叶いたるにより、更に受戒せざりしと也。されば、皆受戒と申すも、後生の有る故にてはなし。唯(ただ)色相とて、出家にあたる作法までに持つ也。此の故に、今時は、この戒行にも当世流が多くあると見えたり。是は先ず、戒律の有ればとて、後生のあるにてはなき也。

 

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