法相宗之事

 〔幽貞〕さて又、法相、三論と申すも、大乗の名はあれども、猶(なお)是も権

大乗(=仮の大乗)と申して、実の位(=大乗)には及ばずと云えり。先ず、法相宗は、唯識宗とて是を云えり。然れ者()、此の宗に釈迦一代の教えを判ずる時は、三時教と云える事を立つ。その三時教とは、初時は有教と申して、阿含経等也。一向小乗と是を定む。第二時は空教とて、など。是も尚(なお)未了の教えとす。第三時は中道教とて、是を実とす。楞伽経(りょうがきょう)、解深(げじん)蜜経などの類也。されば、依経とて、此の宗のふまえ(踏まえ)とするは、別而して(べっして)此の解深蜜経也。瑜伽(ゆが)、唯識論、是又、其の宗とする処也。此の宗旨の教え、事広く侍り。唯識、三性、百法、四縁、四分、種子、五性、作業、受果、五位に修行などと申す事、侍る也。色々終(はて)しなきように侍れども、是も究めてては同じ仏法なれば、替わる事なし。されば、此の宗の心も、一切の諸法は皆我が心を離れず。「山里海河、他方世界の浄土を見ず、知らず」と云えるも、乃至(ないし)「一実真如」の妙理までも、併に(ともに)我が心の中にあり。何ぞ況(いわん)や、我が身に備わる六根、飯食(おんじき)、衣服に於いてをや。(事物が)心の外に有ると思うは、迷いに依るが故に、無始より已来(このかた)、生死に輪廻ながく絶えて、無上覚主の位に至らずと云う事なし。されば、誰も皆心の外に有ると思える万物の形は、悉く(ことごとく)是体性すべて無の法也。心を取って実と思うも迷乱也。心の外に空の相を見るが故に、心の外に有と覚える相は、何れも皆真の法にあらず。此の僻事(ひがごと)の形を滅し失いて、不思議の智を起こして、内に一心を悟るを唯識の空実の観と申す也。爰(ここ)に五重あり。一つには遣虚存実識、二つには捨濫留純識、三つには摂末帰本識、四つには隠劣顕勝識、五には遣相証性識也。されば、先ず此の内に遣虚存実を唯識と云うは、此の不思議の智の一心の中に性有相あり。性は、即ち、真如の妙理、是を円成実性と名付く。円満成就して、本来凝然(=不変不動)なるが故也。相は、即ち、有為とて、実ならざる諸法也。是を依他起性と名付く。彼の真如の上に、他の縁により、かりに起こる相なるが故也。それと云うは、色、声、香、味、触、眼、耳、鼻、舌、身、其の外、金銀珠玉、あらゆる物の類也。    此のかりの相を、かりの相と定めずして、定めて実に有ると思う心の前にあたり現ずる俤(おもかげ)も偏計所執と名付く。是、渾(すべ)て無の法也。是れ即ち、さきに申しつる心の外の僻事のかたちなり。あま子()くはからい思う迷いの心の、執する所なるが故に、偏計所執と名付く也。されば、この三性を、たとえを上げて申さるるは、喩ば、縄を見て蛇と思うとき、三つの事あり。縄の性はわら也。縄は、わらの上に、手足などを縁として、かりに起こる形也。其の形、究めてくちなわ(=蛇)に似たり。之に依て、人誤りてくちなわ(=蛇)と思う事あり。其の蛇の形は、ひがめる(僻める)人の上の俤(おもかげ)にて、体(=実体)、性(=本性)すべて無なり。彼の縄の形は、縁により起こりて、かりにあり。似れども真の体はなし。実の性は唯わら也。されば、くちならの相は、その性()平更なり。縄の相は、かりに有り。わらの体は、縄の性として実にあり。円成の理は其のわらの如く、依他の諸法は彼の縄のごとし。偏計所執は、彼のくちなわの心なりと云えり。此の理を以て、偏計所執と云う理も聞こえ、円成実性と云う物もしれたり。是れ即ち、くち(=仏僧の口)に申しつる虚空、仏性、真如とて、智もなく、徳もなく、何もなき物の事にてあり。何も無き物は、何とて実とは見たるぞと申せば、有る物は輪変(=転変)して有為也。なき物は、火に入りても焼けぬ、水に入れても溺れぬが故に、空を実にすと也。是れ()仏法の極め也。されば、唯よく知らぬ程は、皆何に迷いて、仏性と云えば別のよう思い、虚空と云えばあらぬように心得。円成実性といえば、又、珎敷(めずらしき)、そでなき(=違った)物のように聞きなし侍る。難波の芦は伊勢の浜萩。禅の本分は、法相の円成実性と心得玉え。さあれば、何もなき物の事と思し食()せ。さて、彼の遣虚存実識と云う心は、円成の性ばかりを実と用い、物の形などを空しき物とはらい(払い)やるにより、付けたる名也。捨濫留純識と云うは、境は妄なるものとすて(捨て)、専ら(もっぱら)()体ばかり留るを申し侍ろう也。摂末帰本識とは、見相の末(主客の根本)をきわめて、是れ皆、識の本より也と心得る方也。隠劣顕勝識とは、心所(=心作用)とて、色々の念慮のようなる事をば、おとりたる(劣りたる)者とかくし(隠し)、心王(=心自体)とて、唯有りのままなる心の所をば、勝れたりと顕し、心所も此の心王に依りてありと云う心也。遣相証性識とは、相用をば、かつてたらず、本性をば、求めて明らむべしと云う心にて侍る也。然れば、今申しつる偏計所執と依他起性、円成実性を合して三性の法門とは云う也。此の三性を委しく(くわしく)開く時、百法と二無我と申す事も聞き侍り。百法と申すは、依他起性には、具(つぶさ)に九十四法あり。円性実性には、六種の無為(=不変)と云う事あり。是れを百法とは申す也。二無我とは、遍計所執の空しき事を申すに有りと也。夫れ(それ)とは、補特伽羅(ふとがら)無我、法無我也。 補特伽羅無我とは人、梵語也。すべて人、法共に空ずるを、二無我とは申す也。空ずるとは、無物とさとる事也。爰(ここ)を以て、わきまえ玉え。仏法には後生の有様をしらざる事を。その故は、我と云う者なくば、苦楽を受くべきようなし。今とても別の物とは云わ子()ども、別々死すれば、唯一まいの真如虚空となると思えり。此の真如、円成実性に六種の無為有りといえるは、一には虚空無為、二には択滅(ちゃくめつ)無為、三には非択滅無為、四には不動無為、五には相受滅無為、六には真如無為也。無為と云わる事は、真如は体、性、常住にして、他の為に為作(いさ)せられず。為作と云うは、作りなす義也。作と云うは、縁也。この縁に四あり。夫れとは因縁、等無間縁、所縁々、増上縁也。因縁とは、種は現行を縁とし、又、やがて現行は種を縁とするを云う也。されば、此の種の現行のなと申すは、何事ぞと云うに、種と申すは、心の中に生ず滅する諸法の気分也。気分と云うは俤げ(おもかげ)。其(のように)心得させ玉え。喩ば、先ず、眼識と云うて、眼の方より色(=物質)を見るが、精(まなこ)を起こして色を見るかとすれば、頓而(やがて)滅す。滅するかとすれば、頓て(やがて)生ず。生ずるかとすれば、やがて色を見る也。名(=心の働き)、、此の念々に生滅する間、其の見らるる色も見、眼識も生ず時は、種か気分を残す。残す処の気分、俤(おもかげ)は、色のも心のも、皆隠れ沈みて、其の形見がたし。併(ともに)、阿頼耶識――心とも心得玉え――肺中(=心の中)におち集まる。此の気分を種と名付く。然れば、現行とは、此の種より色心の生ずるを申す也。是は先ず、因縁に付いての事。さて又、等無間縁とは、心の起こるか滅するとい、次の心を引き起こすを云うなり。後の心は前の心を縁として生ずる故也。所縁々とは、心のしる(知る)処の物(=対象)を云う。心は、しらるる物を縁として生ずるが故也。増上縁とは、此のほかの諸物の縁也。身は心を縁とし、心は身を縁とし、我は人を縁とし、人は我を縁とし、有情(=生類・生物)は非情を縁とし、非情は有情を縁とするように、重なり行く縁を云う也。かように、四縁によるは、即ち、他つくりなさるる也。かかる法は、皆無常の常也。然るに、真如常住の妙理は、此の如く四縁に作り出されたるにあらず。此の故に、無為と名付く。真如は一味平等なれば、実(まこと)六体(=六つの実体)あるにあらざれども、位(=状態)にせよ、義相(=意味様相)によせて、六無為を開く也。諸の障碍(しょうげ)をはなれたるが故に、虚空無為と名付く。簡択(けんちゃく=知恵による選び分け)の力に依って、諸の雑染(ぞうぜん=煩悩)を滅しては証会(しょうえ)すと云うは、能く明らかにしる(知る)也。又、知恵の簡択の力に依らざれ共、真如の体は元より清浄也。或いは縁かくる(=欠ける)時に、自ずから不生の理顕る。是を非択滅無為と名付く。縁かくるとは、何れも物の生ずべきが、その縁かけて、自ずから生ぜざる事を申す也。又、苦受、楽受の滅する時、現るる無為を想受滅無為と名付く。想とは、ことに物語をしりわきまえて、其のくさぐさの名をとるを云う也。受とは、苦も楽も、万心に請け取るを云う也と云えり。此れ等の事、皆法相のあつかいにて侍り。御覧候え。兎()云い角云う。是も別の事なし。唯一味の虚空、真如のみより外はなし。されども、此の宗のよ()にかわりたる処は、凝然(ぎょうねん)の真如、諸法を作らずと云いて、真如は凝り堅まりたるようにして、有為の法にはならずと。真如縁起をとかず(説かず)して、有為をば相とし、無為をば性として、諸法の性相(=本体と現象)を分けてり。弘法大師の「性、相を別に論ず。唯識のみにして、境を遮す」と、法相を云えるも是也。此の心は、性相を別に論じ、唯識をのみ取りて、境を捨つと也。其の外、此の宗に付き、色々の事も侍れども、それは終(はて)しなければ、略する也。

 

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