10 妙秀。いやいや。何もかも左様に事もなげには、な宣いそ。別して(=特に)、此の神道の事と申すは、不可思儀の理にて、還本宗源(=かんほんそうげん)の神道などと申すは、吉田一家の嫡流より外には知らぬことにてそうらえば、軽(=かろ)からぬことにて侍るぞ。

 幽貞。さては、其の分に(=そのように)神道と云うことは、余には人も知るまじき様に思い玉うか。御身の様にわけを知り玉わぬ上よりは、下ろう(=下掾F修行不足の僧侶)の申すふしに、「何に様も信シ(=信心)から」とて、とうとく、ありがたきように思い玉うべし。惣じて神と申すは、天地に有る時は、此の陰陽の屈伸来往(=のびちぢみ、行ったり来たりすること)。是を差して云い、人に有りては、魂魄とも申す。加様の事は、右の儒道の沙汰に大方申し侍れば、又々申すまで[]なけれども、今又、御身は、還本宗源の神道と云うことは、吉田一家により外は知ること非ずなどと宣い、神道を秘事がましく仰せそうらえば申す也。神道と云う事をば、黒白をわきまえたらんほどの者は、など知らではそうらうべき。大唐にて昔より目口のかわきたる(=抜け目のない利口な)儒者どもの色々云い尽したる事なれば、其の旨は明かにさぶらうぞ。仮令(=たとえ)、其の家々面々の(=それぞれの)約束ありて、少しは秘事がましく云う様なる事は、百も(=有も)こそせめ。其れは常に申し習わす如く、「秘事はまつげの如し」と申して、深しき事はなき物にて侍り。大唐にて儒者どものが神道の事を沙汰したりと申せば、知らぬ人はおかしきことをわらわは申す物哉とも思い玉うべけれども、百(有る)事にて侍り。儒者の沙汰せし陰陽と云うをば、何と心得え玉うぞ。其の陰陽の二気が、屈伸往来の止まざる所を霊とす。去れば、此の霊なる所を又神とは云えり。二気の上に云う時は、陽は神、陰は鬼也。但し朱子は「陰陽の端は動静の機のみ」と云えば、動が極まりて静し、静が極まりて動す。故に陰の中にも陽が有り、陽の中にも陰が有れば、鬼神は都て(=すべて)二つならぬ物ぞ。日本にて「国常立尊と云えり。天地の中に一つのものなれる」とありしは、是、此の陰陽の事ならずや。国常立尊と云う心ろ、国とは天地を差して云い、常とは不易と云わんが為の名。立とは独立の義。尊とは君父等を敬うことの称なり。此の国常立と云うが、「天には一陽の霊元、地には一陰の霊元、人には性命の霊元なる故に大元尊神とも云う」。次に、国狭槌尊(くにのさつちのみこと)と云う心ろ、国とは前の如し、狭は隘(=あい)也と訓せり。此の時は国が狭しと云う義にて、是に名付けたり。天地開闢の時は、「天地の間、去ること遠からず」(書紀神代上)。せばせばしくて有りし故也と云えり。あらあら初心(=稚拙なこと)やそうろう。さて又、槌とは土の云うと同じ心の和訓なり。此の如く、天地開闢の時は国土が狭き故に、其の所に名をつくる時、 国狭槌尊とは云うと也。更[]とうとからぬ事にて侍り。次に豊斟渟尊(とよくんぬのみこと)とは、豊(=とよ)とは足る也。是即ち、豊饒満足の姿なりとぞ。是は天地開けて後なれば、はや豊かに成りと云う義、斟(=くん)とは手を以って水を汲む義也。渟(=ぬ)とは韵(=いん:韻)書には「水が止まるを渟(=てい)」と云うなれば、是即ち、水の一所にかたまり居てあるを、汲み用いて一切の物を豊かにするが此の神の姿也と云えり。次に埿土煮尊(ういぢにのみこと)とは、埿(=はん)は深い泥也。煮(=しょ)は日の物を燥す(=かわかす)也。此の時は、譬えば火にて物を煮れば、漸々に熱してかたまる如くに、はや天地が已に(=すでに)分かるるの時、泥が燥(=かわ)きて土となることは、火にて物を煮るが如く也。此の所を名付けて云えりとぞ。沙土煮尊(すいじにのみこと)とは、沙とは水の遠き所を沙と云う也。水が去れば沙土(=砂土)のあらわるる(=現れる)の故にしか云うなり。次に大戸之道尊(おおとのしのみこと)とは、大とは尊勝の義、戸は家なりと訓して家の事也。道は路也と訓して、此の界(=世界)の道が初めて出で来る也。是即ち、泥が燥き(=かわき)、沙(=砂)が平らにしてある家と云う心也と云えり。大苫辺尊(おおとまべのみこと)とは、大とはまえの如し。苫とは茅(=かや)をあみたるを云う也。此の尊の時は茅をあみて苫(=とま)して宮屋を作り、風雨の難をさくる故に、しか云うと也。次に面足尊(=おもたるのみこと)とは、面て(=おもて)満足したると云う心也。此の神のさきには、天皇氏(=てんおうし)は十三頭、地皇氏(ぢおうし)は十一頭にして(=中国の伝説的三帝王:天皇、地皇、人皇)、面形(=おもかたち)が見苦しくありしに、此の尊の時より、面も見事に、諸根(=すべての感官・六根)も具足して、かくる(=欠ける)所なき故に、面足の尊とは云うと註(=ちゅう)せり。惶根の尊(=かしこねのみこと)とは、是姿、形ちがうつくしく、男根女根が、此の時より初まる也。又、前代の神よりも賢き故に、しか云うと云えり。次に伊弉諾尊、伊弉冊尊、伊弉とは世話(=世間の話し言葉)に去来(=いざ)と云う辞(=ことば)也。是即ち、天地の間に往来して、天地が母と成り、父と成り玉う故に、伊弉とは云い、諾冊(=なぎなみ)は神号也と註せり。是は皆、神道の遠くは天地陰陽の上に付けての心得にて侍るが、いわれを聞けば、皆浅き事にてとうとからぬ理りてそうろうを見玉え。近くは又吾等が身の上に取っての心得と申すは、父母交懐するは国常立尊也。父の婬水(=ようすい)の凝りて母の胎内に宿るは国狭槌尊也。胎内にて動く所は火の徳にして豊斟渟尊、母の胎内にてかたまる所を埿土煮、沙土煮と云う也。生まれ出て成人し、家を持つ所が大戸之道尊、 大苫辺尊。さて又、程なく父と成り、母と成りて、子をもてば、伊弉諾尊、伊弉冊尊にして、我等が一身が、其のまま天神七代也と心得るが神道の本意にてそうろう。

 惣じて此の身より外の国土の開け初まりしとある事につきての沙汰は一往(=一応の本来の漢字:一通り、表向き)にして、譬えば仏教にては権教(=大乗・実教に入る方便としてかりに説いた教え)の心也。真実の所と申すは夫婦交懐して、儒者の云うなる小天地、仏者の沙汰する肉造化(=にくぞうげ)なる此の人心の出で来る所を、矛のしずくが大日と云う文字の上に落ち留まりて、淡路嶋と成りて、其れより国土が弘まるとは申しそうろうぞ。先ず思うても見玉え。此の下心(=下の意味・隠れた意味)ならずば鉾をさしおろして、此の大海の中に国となるべき下地はあるまじきかと云って、かきさぐると云うは、疎か(=おろか)なる事にて侍まじきや。国土を造り開くべき程の神ならば、水の底に其の下地のありなしにかかわらず。其の上、又其の下地のなるなしをば、かきさぐらずとも知らずんは有るべからず。然るに、先ず、此の瓊矛(=ぬぼこ)をさしおろしたると云うことを沙汰すること、其の下心ろは、御身とわらわが中にてさえも、面わゆく(=恥ずかしくて)云われそうろはねば、申すまでもなし。鉾とは何、したたりとは何とある事をば推し量り玉え。大日と云う文字の事、是又、人の一身を差しての事にて侍り。人の手足をひろげ伏したらんには、大日の文字の形なるべし。是又、委しく(=くわしく)は申すまでもなし。去ればとよ、神道の内証(=内密の教え・極意)は唯は此の夫婦の交懐の陰陽の道に極まりそうろうぞ。神前に出入る(=出で入る)鳥井の姿、しめなわ、きね(=巫:神に仕える人)の袂(=たもと)になる鈴、青和幣(=あおにきて:青い御幣)、白和幣(=しらにきて:白い御幣)を初め、何れが陰陽の其の表式(=表現)に非ずと云う物そうろう。さりとては、是はとうとからぬ事、申せばけがらわしき義にて侍るぞ。碁は敵手に逢いて行うを、かくさじとも、たえなるたくみなれば、疎(=おろか)なるは其の智に及ばず。惣じて何れも秘事と云いて隠す程の事に、深き事はそうろわぬぞ。明かに見するか、云うかするなれば、あら差してもなやと(=あら、たいしたことはない)、見聞く人の思うが故に、陰す(=かくす)事にて侍り。真言の秘事、神道の秘事、何れも此の謂れとと思し召せ。

 其の上、神書などの事に付きては分別(=理解)すべき事がそうろうぞ。此の日本にかぎらず、惣別(=大雑把に言って)大国につづかぬ島国の初めは、必ず其の隣国の人が渡りてすみそめ、其れより子孫繁昌すれば、後には本国の事をば知らず成り行く物也。南蛮の南に当りで錫狼(=せいろん:現スリランカ)と云う島の侍るは。南蛮の人がすみ初めて、其の嶋に子孫繁栄し、亜非利加(=あひりか:アフリカ)と云う国の東に当たりて、賛労冷祖(=さんろれいそ:ポルトガル語でサンロレンソ、現マダガスカル島)と云える嶋の侍るには、即ち、彼アヒリカの人が渡りそめて村里をかまえ、田園を開き、五穀成就して、人[]のすむ所となれりとぞ。其の如く、此の日本も隣国より渡りそめて、加様にひろまりそうろうべけれども、後には国里もひろく也、人倫(=人間)数を知らず成り行くままに、其の初めをば唱え失い、神書と云える物を作り、伊弉諾尊、伊弉冊尊と云いし神が天降りて国里、海川をうみひろげ、人倫畜類をも生じたりなどと云いひろめしかば、一人が虚を伝えれば、万人は実と伝える世の習いにて、誠ぞと思い居るのみ也。其の初めの事をば神代と名付け、久敷くさえ伝えばとうとき事ぞと心得、過ぎたるは尚し及ばざるが如しと云う事をば知らで、伊弉諾尊、伊弉冊尊の治世は二万三千四十歳にして、其れより地神五代(=天神七代より地神五代)に成りては、或いは卅万歳、或いは六十三万七千八百九十二年、或いは八十三万六千四十二年の代々を径(=経)て来るなど、何を証拠とも、何を道理ともなく、云いたきままに数かぎりもなく久しく云いなしたるは、おかしき事にて侍らずや。是程久敷き事ならば、文字、文章のありても伝えては知りがたかるべし。ましてや、此の国の初めには文字もなく、応神天皇の治世十五年(=ロドリゲス『日本教会史』によると西暦二八五年)に当りて、百済国より経典を渡し、其れより已来(=このかた)、今年慶長十年(=西暦一六〇五年)に及びては、大方、一千三百三十八年かと思いそうろう。是より先には文字と云う事もなし。弘法のいろは、吉備公のカタカナも、彼経典の渡りてより遥か後に漢字よりかたどり作り出せる文字なれば、其の昔しの事が、云える如くに久敷ば、何としてかは伝えるべき。但し神代にも、一万五泉三百九十五字の文字が、唱明(=声明)のはかせの如く、ゆがみ(=歪み)、すぢりたる物(=ねじまげた物)がありしかば、今に吉田の字の秘説にて、世に伝えずと云う人あり。あら、うそやうそや。是程物知りたて(=これほどに物知り顔)をしたがる世の中に、真に此の文字あるならば、人にこそは教えてよませらめ。札に成りとも、何に成りとも書き付けて、是こそ神代の字にて、吉田殿より外は知られずなどもいわずべけれども、いにしえもなく今も伝えねばこそ、神代の字とて見たる人もなし。有る物ならば、一万五千三百九十五字を皆までこそは見せざらめ、責めて一字をば、わらわに見せて玉われかし。おそらくは、唯有る間敷きとこそ思いそうらえ。其の故は、其の字が有るべくんば、吉田よりも天子(=天皇)の在(=まし)ます禁中にこそは有るべけれども、如何なる朝の近臣、重職の人々も、一字を見たりと宣うを聞かねば、なきが真にてそうろうぞ。

 

次へ