妙秀。御不審の理にておわする也。わら我(=わらわ)が父は四書五経(四書=大学、中庸、論語、孟子;五経=易、書、詩、春秋、礼記)などの上をば形の如く学びたる人にて侍りしが、その申されし太極と天道の沙汰を聞きさうらいしは、左様に(=さように)難く(=固く)陰陽を耳(=のみ)守る事にては侍らず。太極の図とて見せられしは、彼様の物にてそろいつか。此の内の円き所を除き、其の次の一番の輪をば二つに分けて、陰陽の逆行、順行とかき、又、二番めをば一倍にして、四つに分けて、太陽、少陽、太陰、少陰と書き、三番目をば又一倍にして八に分けて、乾、兌、離、震、巽、坎、艮、坤の八卦(=はっけ)を書き、又四番めをば一倍にして十六に分けて、八卦を重ねて書き、又五番めをも今の一倍、三十六に分けて、是にも八卦をを重ねて書き、又六番めをも此の一倍、六十四に分けて八卦を書きまわし、其の上の方には、六十四卦の処を書きて、此の事かき(=書き:ことがき:説明)には、中の円く虚なる所より何事も生じ、又爰に帰すれば、其の虚なる所を、せんに見ことにいえるが様に(=前に見事に言ったように/先に見よと云えるが様に)書きつると覚え侍る。然れば物の生ずる事は、只、天道自然の道理にして、是非すべき事に非ずと、常にわら[]が父は申され[たる]。陰陽の無心無智成るによって、是より物を生ずる事は叶うべからずと云う事には、拘わり(=こだわり)給うべからず。

 幽貞。さては、御身の父は儒者でおわせし故に、御身も一分は其の理を聞き給い、太極の図などを見たまいしに、さ耳(=さのみ:そのことばかり)、陰陽のことのみには拘わるずとの給うか。さも侍るべし。去りながら、左様に申せば、後には(=結局は)仏法と一つに(=同じに)成りそうろうぞ。太極の図も色々に侍るが、御身の今の給いし(=宣いし)つれ(=類)の図を、われかも(=われらも/わらわも)見てそうろうが、其の事かき(=事書き:説明)に、「此惣て(=これすべて)太極の図なり。中間の虚成る所は、及(=いまし:今)、大道の惣櫃(=惣枢:すべての機軸)、なおし(=猶)、屋(=おく)の中棟(=なかむね)にして衆木が是に攢(=集まる)が如し。天の北辰(=北極星)、衆星も是に拱し(=たんだくし:組み合わさって)、国の皇極(=天子)、兆民(=万民)も是に帰す。上古の聖神(=聖人)が、天に継ぐ(=従って)機をたつる物が、大中(=不偏不党)、至正の機也。六十四卦の中より出て、一理が定まらずと云う事なく、一徳備わらずと云う事も無く、一事かねず(=兼ねず)と云う事無く、一物融ぜずと云う事無し。虚中より六重を出生して卦と成す。此の外に二たび六重をくわゆる時は、四千九十六卦と成る。外に向いて二度加えれば無量の数に至る。大地を明て昆として(=大地を挙げて帋として)数えると云え共、尽す事あたわず。所謂(=いわゆる)道理は無辺にして、及し(=今し)、体統(=ていとう)一箇の太極也。若し(=もし)事物の上に是を論ずる則(=ときんば)、事々が一太極、物々が一太極にして、無辺の真理を具せずと云う事なし。是を譬うるに、拳石(=一こぶしの石)は是、一箇の太極、将に(=まさに)石が砕けて微塵と成る則ば(=ときんば)、塵々が各(=おのおの)一太極にして、皆此の理に涵(=おん)(=この理に含まれる)。系(=糸)毫も(=少しも)かけず。噫々(=ああ)、此の太極は当に(=まさに)遠く求むべからず。人心一念の起こりは、便(=すなわち)是、一小太極にして、便(=すなわち)無辺の真理を具す。念念皆(=すべての観念も)然り。人人皆然り。百性(=ひゃくせい:諸人)は日々(それを)用いてしらず。天地万物は実に是人心の一念耳(=のみ)。儒家の所謂(=いわゆる)小天地、尺(=釈)家の所謂肉造化(=にくぞうげ:肉体)、此れ則ち是なり。学ぶ者は当に是を自得すべし」と見えたり。是を以って是を案じそうろうに、何(=斯:か)様に申せば、儒道も畢竟は仏法と一つ成る事は申すに及ばず。道教の教えとも同じ様に聞こえそうろう。三教一致(=中国では儒釈道、日本では神儒仏)と申すなわらわしは実にて(=まことにて)そうろう。その故は、令(=今)の太極の事書(=ことがき:説明)にも聞こえたる如く、「中間の虚なる所は大道の惣枢、猶し屋の中棟にして、衆木是に聚る(=あつまる)が如し」なんどとかけるは(=書いてあるのは)、彼(=かの)老子の「道、一を生ず」と云える虚無自然の所、仏者の云う成る虚空法界をさしたる物ならず哉(=や)。又、「此の太極は、当に遠くに求むべからず。人心の起こるは便是(=すなわちこれ)、一小太極」と云い、又、「天地万物は実に是心身の一念の事のあみ」と云うは、仏者の万法唯一心(=万法は一心に納まる)と云う心ならずや。儒家の所謂小天地、尺家の所謂聞(=肉)造化と云う時は、此の一身の外に求めぬ太極。此の一身の外に尋ねぬ真如(=あるがままの真実)也。弘法の「夫れ(=それ)仏法は遥かに非ず、身の中にして則ち近し」と云えるにこと成らず。然る時は人の無心無念成る所をば、虚無の大道共、無極の天道とも、真如平等とも心得、一念の起こるをば、道が一を生ずとも、一小太極共、業識元初(=万法の根源)の一念共、儒尺道が、めんめんに(=それぞれに)名目、となえ(=唱え:呼び名)を替えたる迄なれば、江南の橘を江北には枳(=からたち)と成すが如くにして、其の根本は替わらず。「一、是を以って貫ぜり」(『論語』里仁篇)。然れば畢竟、是も我が心自ら空成りと心得、又、空無を以って万法の根源ともしある物にて侍る。尚々(=ますます)わけの聞こえぬ事にてそうろう。智恵智徳のそなわりたる作者なく[]ては、塵や一法とても生ずる事叶わぬ事成るに、況や此の天地人物は空無より自然、天然とは何として生ずべき哉。

 

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