妙秀。いやいや、左様[]又自然、天然()と万物を空無より生ずる共、儒道には申さぬ[]承る。其の故は、易の彖(=たん)の辞(=ことば)にも、「大なる哉、乾(=けん)の元は。万物は資して始む。及し(=今し)[]を統ぶ。雲行き雨を施して、品物の形を流しき(=行き渡らせた)。大いに終始を明かにして、六位が時(=ここ)に成れり。時に六龍に乗じて、以って天[]い御す。乾道変化して、各(=おのおの)性命を正す。大和(=たいわ)を保合して、及し(=今し)利貞也。首(=はじめ)として庶物に出て、万国は咸(=ことごとく)(=やすし:安寧)」とあると、父の申されたるを覚えて侍り。是をば何と心得玉う哉。

 幽貞。其の事にてそうろう。此(=かく)の如きは皆、天地陰陽を万物の根源となして云いたる物にて侍り。その理りは、此の(話の)初めのわらわが申したる事にてそうろう。去れば、此れ畢竟は、今申す如く、太極は無極の天道に帰しそうろう。此の理をば尚末に申すべし。先ず、令(=今)御身の宣う彖(=たん)の辞(=ことば)の心を、わらわも前、本卦(=ほんけ)をとらせそうろう時に、易者より聞きて侍れば、委く(=くわしく)は申して、万づ其の上にての事にしそうろうべし。先ず、彖(=たん)は、易の本義(朱子『周易本義』)に、「彖(=たん)とは即ち文王所繋(=じょけい)の辞(=ことば)」とのせて、卦(=け)の下の辞を彖と云う。孔子の、(これに)随って(=したがって)是を釈するをも、道(=つう:通)じて是を彖と申し侍る。 彖とは其の心、統総(=とうそう:すべてを治める)とて、すべすぶるにて、茲に(=ここに)は乾の徳用をつづめて断[](=断定し)たることにてそうろう。さて、此の乾とは何ぞなれば、易の伝に、「乾は天也。[天者乾之]形体。乾とは天の性精、乾は健也」とて、「健にして息む(=やむ)ことなき、是を乾と云う。夫れ天は、専ら是を云う時は、即ち道也。分けて是を云えば、即ち形体をも以て是を天と云い、主宰と以て、是を帝と云い、功用を以ては是を鬼神と云い、妙用(=不思議な作用)を以ては是を神と云い 性精を以ては是を乾と云う」。「乾とは万物の始めなる故に、天とし陽とし、父とし君とし、元(げん)、亨(こう)、利()、貞(てい)、是()を四徳と云う。元とは万物の始め、亨とは万物の長、利とは万物の遂(=成就)、貞とは万物の成也」と見え侍り。又、本義(『周易本義』の乾卦の注)には「此の四徳の元は大也。亨は通也。利は宜也。貞は正而して固也」ともあり。去れば此の注の心を猶、再尺(=釈)せば、万物の生成変化をば、儒者は天地の徳のみによると見るが故に、先ず茲(=ここ)には天を一番に云える物也。さて此の天を茲には乾と云うことは、天と云う時は、其の形の物体に名付く。乾とは健也で、すくやかにして止む事無きに名付く。其の徳用をつかねて(=まとめて)云う時は、天を道とも名付けたり。尋常(=普通に)、天道と云うは茲(=これ)也。又、徳用を顕して云う時は、天の物を宰(=つかさどる)所をば帝と名付け侍る。上帝、天帝と云うは是也。功用とて、往くとして帰らずと云う事なき所をば、天を鬼神とも云えり。鬼は帰、神は伸の心也。妙用とて、天の測りがたきと云う所をば、唯神とも云い、其の上、乾は万物の始めなる故に、天共、帰(=陽)共、父共、君とも云う也。又、此の天の徳にによりて、春は万物の生ずるを元とし、夏は長するを亨(こう)とし、秋は熟するを利とし、冬は落ちて根に帰るを貞(てい)として、是を四徳と云えり。去れば、是をふまえとして、先の彖(=たん)の本文を申すに、「大なる哉、乾の元。万物資(=取り)て始む。いまし、天を統ぶ」とは、先ず、此の一節は、元の義を尺(=釈)する物也。大なる哉とは、ほめたる辞にて、元は大也、始也とて、乾元は天の大始(=だいし)なる故に、万物の生ずること、皆是より資(=とり)て始むと云えり。又、四徳の首(=はじめ)として、天徳の始め終わりを貫く故に、天を統ぶとは云えると、本義にも見え侍り。さて。「雲行き、雨施し、留め)(=品)物形を流(=しく)」とは、是、乾の亨(こう)を尺する也。「大に終始を明かにして、六位時に成、六龍に乗じて、以て天を御す」とは。始めおは即ち元也。終りとは真(=貞)也。六位とは六爻(りくこう)の次第(=順序)。六龍とは、此の卦は六爻皆陽の爻なれば、陽に体とて(=のっとって)六龍とは云えり。云う心ろ、聖人は是に体て(=のっとって)、時の吉凶、変化をはかれば、以て天に御すとは云えり。「乾道変化して、各(=おのおの)性命を正して大和を保合す。及(=いまし)利貞なり」とは、変とは化の漸(=進んだもの)、化とは変の成(=せい)なり。物の受くる所を性とし、天の腑る(=ふなる)所を命とす。大和とは陰陽の会合、沖和の気(=和らぎ和する気)なり。各正(=おのおの正す)とは、有生(=ゆうしょう:命あるもの)の初めを得る也。保合とは已に(=すでに)生ぜるの後を全うする也。云う心ろは、乾道の変化、所として利ならずと云うことなし。万物は各(=各々)其の性命を得て、以て自ずから全となり。是は利貞の義を尺する也。「首として庶物に出で、万国咸(=ことごとく)(=やすし)」とは、天は万物の祖、王は万邦の宗なり。乾道とは首として庶物に出で、万彙亨(=ばんいとおる:万の類に行き渡る)を、君道(=君主の道)も是に体て(=のっとって)(=まつりごと)を行えば、万国皆やsきと云える儀なりと承る。然れば此の心ろは、畢竟、あの上にある天、下に居する地、中にある沖気の気を、都て(=すべて)太極とも天道とも云いて、万物の生滅は皆此の三つより也と思う者にてそうろう。

 去ればとよ、初めにも申せし女(=如)く、キリシタンより申せば、茲にて侍る。此の天地陰陽は、何れも無心無智の物なれば、此の太極、此の天道より万物を生ずると云うは、薬種が己れと独り集まりて、牛黄円(=ごおうえん:牛の内臓結石・緩下剤)とも、蘇合円(=そこうえん:香料の調合・塗擦剤・強壮剤)とも成りたると云う程の心にて、ならぬことにすめて(=澄めて:決着させて)置きそうろう。其の上、天地陰陽と云う物からが、独り有るべき物に非ず。万ずの物、色形ちあるは、其の初めなくて叶わず。初めあれば自ずから自ずから初まることあたわず。他の力によらざれば、生じそうろはぬぞ。万物は天地陰陽より出来ると云わば、其の天地陰陽は何く(=いずく)より生じたりと思い玉うや。此の所に至りては、儒道も虚無自然の無極を根本とせざれば叶わず。其の故は天地造作の主ある事を知らねば、虚無より自然に生じたるとより外は云うべき様なし。去れば易道の観念も、両儀にわかれたりと云えども、一には日月を以て、証明とす。故は天地は無明(=闇・無)より起これり。無明とは太極也。此の太極は無極の勅(=命令)を受けて、陵夷(=岡と平地)を分かち、雲行き、雨施して万物を育成す。此の此の群品を輝さんが為に、三充(=光:日月星)が明白としてあり。故に一往は両光を以て求望の主とす。此の時は天地陰陽を太極と云い、天道とするの義也。二には根本を以て天道と観ずべしと也。是即ち(すでに)示す所の無極[]の本源也。然れば無極は離々として太極の外に尊く(=太極と異なり、太極よりも尊く)、太極は環々として(=太極はぐるぐる環って)無極の掌(=たなごころ)に磨かれたりと云う。然る時は此の天地陰陽を合わせて、太極とも天道とも見るとき、又天地の外のなにもなき所を無極の天道と見るとの二つが、易道にも有ると聞きてそうろう。何れにしても、有智有徳の能造の主(=上手に造る主)あることを知らざれば、ふみとむる所(=踏み止まる所:しっかりとした基礎)なくして、一途落居なし(ひたすら落ち着くところがない)。一体の作者が、天地万像にはなくて叶わぬことをわきまえ玉え。

 

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