妙秀。いや天地陰陽は無心無智の物なれば、独り己れと和合して物となること、叶うべからずと宣うは、儒道に云うなる鬼神の霊徳(=陰陽の気の働き)を知り玉わぬ故也。『中庸』とやらんにあると申されし(言葉に)、孔子()、鬼神をほめて「鬼神之徳為(=鬼神の徳たる)、其れ盛ん矣乎(=なるかな)」と云うは此の徳用にて、万物の造化はあるぞと云う儀也。是をば心得玉わずや。

 幽貞。さては御身は、鬼神と云う物は、天地陰陽の外に別にありて、其れより天地も開け、万物の造化もあると心得玉や。其れは、ひが事(=僻事:間違い)にて侍り。やがて、今の中庸の注にも「鬼神は天地の功用にして、造化の迹(=あと)也」と程子(=北宋の学者、性理学の大成者)は云い、張子(=北宋の学者)は、「鬼神は二気の良能なり」と云うと聞きてそうろう。然れば、鬼神と云う物がありて、其れから造作したる天地と云うにも非ず。鬼神は天地の功用と云うは、天地陰陽より出たる様を、鬼神と云うなれば、鬼神の元は天地陰陽なり。然らば、此の天地陰陽はいづくより出来したるぞ。天地の功用とは、寒暑の往来、四時八節(=四季と、立春・春分・立夏・夏至・立秋・秋分・立冬・冬至の八節)のうつり替わることなどを云う也。至って伸びる物(=外に向かって伸びるもの)を神とし、反って(=かえって)帰する者(内に向かって帰るもの)を鬼と云う。去れば、朱子()、別の所には(『朱子文集』七二、雑学弁)、「陰陽の端は動静の機のみ」と云えば、動するは陽にして神、静するは陰にして鬼也。陰陽をはなれてある鬼神に非ず。此の鬼神の根源なる陰陽は、誰がなす所ぞ。キリシタンには此の天地陰陽の作者、一体()在ます(=まします)ことを談ぜられそうろうは、是の理りにて侍らずや。

 

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