妙秀。実も(=げにも)、はや、儒道には万物の根源を天地陰陽と見そうらえば、鬼神も其の用也。然るにキリシタンには、其の天地陰陽も自ら有る物に非ずと宣うは、理りにてをわする也。さて又、儒道に魂魄(=こんぱく:魂は陽、魄は陰)の沙汰をせられそうろうが、御身は此の事を何と聞き玉うや。

 幽貞。其れも鬼神と云うに同じ事と聞き侍り。朱子太全(=大全)にも、「精が聚る(=集まる)は則ち魄が聚り、気が聚るときんば魂が聚る。茲を以て人物と成りて体を安んず。精が竭き(=つき)、魄が降する(=こうする)ときんば、気は散じ魂は遊して行かずと云う所なし。降すれば屈して形なし。故に是を鬼と云い、遊すれば伸にして測れず。故に是を神と云う」とあれば、是も鬼神と同じく、二気の良能にてそうろうぞ。又、鄭氏(=後漢末の学者)は其の口鼻の嘘吸とは気を以て云い、耳目の精明は血を以て云えば、是も気は陽、血は陰なれば二気の良能也。儒者は後生の有無をば論ぜざれども、先祖の神を祭るも、是皆極めては天地陰陽を祭る心ろ也。朱子が、夫子(=ふうし:賢者への尊称、孔子に用いられる)の宰我(=孔門十哲の一人)に答えし鬼神の説を「甚だ好」と替(=ほ:賛)たるも、是にて侍り。気者(気は)神の盛りなり、魄者(魄は)鬼の盛りなる也。人は死する時、魂は天に帰し、精魄は地に帰す。此の故に、古人に(=は)祭礼に燎(=りょう:かがり火)[]たいて、以て陽に本(=求)め、(水を)(=そそ)いで以て陰にもとむと云えり。畢竟、天地陰陽を人物の始終、本末とも見るより外のことはさぶらわず。

 

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