妙秀。魂魄(=こんぱく)の沙汰も御申し候如く、わらわも聞きて侍り。さて、儒者と道者の心得はいかように聞き玉うや。

 幽貞。其の事にてそうろう。儒者は、今まで申しつる様に、天地陰陽の外には人物の根源とも云うべきは、別ちになしと見、是を太極とも、天道とも云い、畢竟は、事々(=諸々の事)は一太極、物々は[]太極とて、都て(=すべて)万物に隔てなし。天地に備わる事理の二つが和合して、人畜草木ともなるに、理は物に稟て(=うけて:与えられて)、是を性と云い、事は物に稟て、是を気質と云う。理性(=りしょう)に隔てはなけれども、事となる気質の不同あるが故に、人物の貴賤の隔てあり。朱子が大学の序(『大学章句』序)にも、「蓋し(=けだし)、天が、生民(=人民)を降ろしてより(=生じてより)、既に是にあたうるに、仁義礼智の性を以てせずと云うことなし。然れども其の気質の稟る(=うくる)こと、或いは斉き(=ひとしき)事あたわず。茲を以て皆其の性の有する所を知って、是を全うする事有ることあたわず」と書けり。さて其の気質の不同とは何ぞなれば、先ず、質とは五臓(=人体の内臓と骨)、百骸の形ち、気とは陰陽五行の気。此の気の中に正通偏塞の四等あり。正とは正しき気、通とはふさがらず通る気、偏とはただしからず、ゆがめる気、塞とはふさがりたる気也。此の内に、正通の二つはよき気、偏塞の二つは悪き気也。正通の気を受けたるは人と成り、偏塞の気を受けたるは禽獣、草木となる。又、此の正の中に美悪の二つあり。通の中に清濁の二つあり。此の故に人倫に於いても、聖人、智者と成りて、生まれながら道理を知り、おこなう所、矩(=のり)をこえず、人に勝れ、世に尊まるるは、美の気を受けたる物也。又愚、不背(=肖)の人(=愚かで、親に似ない人)と成りとて、黒白をわきまえず、言行ともに不善にして、人の形ちは得たれども禽獣にひとしきは、悪の気を受けたる物也。又、偏塞の二気にも美悪、清濁あるによて、此の二気を受けたる禽獣、草木の上にも、其の徳用の優劣はある物也。去れば此の性は天地人物不二(=同じ)にして、天地に有りては理と云い、人に有りては心と云い、物に有りては性と云う。是を尚書(=書経)には「哀(=よきこと)を降す」とかき、詩((=詩経)には「彛(=い)を秉(=と)る」(:彛秉とは恒常不変の天命の性を保持すること)と述せり。孔子の性と()、天道(である)と云い、子思(=しし:孔子の孫)が「天の命ぜるを性と云う」と云えるも、孟子の「仁義の心」と云うも、太学(=大学)の明徳と申すも、皆此の性の一理を沙汰したる物にてそうろう。然れば、此の大学の明徳と云うは、太(=大)学の首章(=始めの章)に、「太学之道は、明徳を明かにするに在り、民を親に(=あらたに)するに在り、至善に於いて止まるに在る」とある三綱領の第一にて侍り。色々申せば果てしなく候ほどに、此の三綱領を以て儒者の心とする所を略して申すべし。「明徳とは人の天に(=天から)受ける所にして、虚霊不昧也」と云えり(朱子『大学章句』注)。虚霊不昧とは鏡の明かなるは、胡(=北方の夷人)が来れば胡が現じ、漢が来れば漢が現ずるまでにて、是非する所なきが如し。然るに、人欲の私とて、眼耳鼻舌身の欲が境(=周囲の状況)に乗じて起こり、自他の隔てを思うが故に、虚霊不昧の本心を曇らす。其の人欲の私をのぞけ(=除け)と云うを、「太学の道は明徳を明かにするに有り」と云えり。「民を親に(=あらたに)するに有」とは、彼(=かの)明徳を得たらん後は、まさに推して以て人に及ぼし、民の旧染のけがれを去らしめよと也。「至善に止まるにあり」とは、彼天理の極めを尽して、一毫(=いちごう:一本の毛)の人欲の私なき所に至らば、其れよりうつらざれと云う心なり。此の故に、仁義礼楽を以て天下を治め、人を教えるが儒者の心にてそうろう。道者(=道教を奉じる人)と申すは、太極は無極より生ずれば、其の根源は虚無の大道也と見、虚無自然の道に体て(=よって)、仁義礼楽をば絶ちてすて、無為(=自然のまま、人為を加えないこと)を本としそうろう。此の心は、譬えば薬の徳用は貴とけるとも、病のあるが為也。神仙の丹薬(=神や仙人の不老長寿の薬)も、しかじ(=如じ)、無病ならんには。仁義礼楽も善也と云えども、大道のすたれ(=廃れ)たる所よりおこれり。彼無為にもとづかば、仁義の道も何ならず。礼楽の行いもよしなし。「しかじ無為無事にして、命を安くせんには」と云うが、道者の心ろにてそうろう。老荘列の三子等(=老子、荘子、列子の三氏たち)は、皆かくの如く虚無自然とのみ見るによて、仁義礼智信の道をかろんじそうろうが故に、儒者は尺道(=仏教と道教)の二教をば虚無寂滅の教えと云いて、甚だ嫌われそうろう。去れば儒者の如きは、なつうらの教えと申して、性得(=生得)の人の心に生まれつきたる仁義礼智信の五常を守るような所をば、キリシタンの教えにも、一段ほめられそうろう。但し、天地陰陽を太極、天道と見て、其の作者を云わず。人蓄草木も気質までにて替り、其の性は隔てなしと云う様なるをば、まよい(=迷い)と申し侍る也。三教一致とは申せども、尺道の二門は沙汰のかぎりにてそうろう。

 

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