貴理志端の教えの大綱の事

 幽貞。今までは仏法、神道の趣を有のままに語りまいらせぬ。御身は智恵も賢く、心もすなおいおわするが故に、さように事の道理をよく聞き分け、何れも邪法なる事を弁え玉えば、嬉しくそうろう。若し、此の分に(=このように)申す事を我慢偏執の人(=偏見に囚われた人)などの伝え聞かば、秘事とする所のあさ(=浅)まになれば(=言葉でけなされれば)、さこそ(=さぞかし)わらわをにくみ、そしらんずらめ。よし(=そうだとしても)其れも厭うまじ。真の顕わるべき為にしもあらば、此の身は喩い害(=ころ)さるるとも何かは苦しみ、くやみ侍らん。されば、其の余の外は(=その他のこと)云うに足らず。さて、其の真とは何ぞと申すに、我が宗キリシタンの教えの事にてそうろう。此の宗の教えの真実にして、広大に侍る事は、天地を紙となし、万の草木を筆とし、西の海を硯として書くとも、いかで書き尽すべきなれば、ましてや、身ずからなど、かようなる者の、此の教えを語りまいらせんとて、一つの子理りをも申し顕わさんとする事は、たとえば嬰児の貝を取りて、滄海(=そうかい:青海原)を量らんとするとやらんにてそうらえども、「一文は無文の師」(=一字でも知っている人は無学の人の師である」と申すならいのそうらえば、寺へも御供申して聞かせまいらすべき其の下地計り(=ばかり)に少し語りまいらすべし。去れば先ず、申すべき事は多かる中にも、第一には、現世安穏、後生善所の主なる一体の真の扶け手(=たすけて)を知り玉うべきこと。第二は、其の扶かるべき者は何ぞと知り玉べき事。第三には、扶かる者と扶からぬ者との至り所を聞き玉うべき事、第四には、其の扶かる道は何とし、何とすれば、又扶からぬぞと云う事を心得玉うべきこと肝要にてそうらえば、是等の理りを語りまいらすべし。其の内に何事にてもあれ、不審く(=いぶかしく)思い玉う事は又尋ね玉え。申すべし。

 妙秀。さてさて、キリシタンの教えは奇特なる事にて侍り。御身などの宣う分さえ、はや其の如くらち(=埒)のあきたるように(=よく解明されているように)候えば、さぞ其の談義、説法をもし玉う人々の、直に教え玉わば、万に如何程明かにそうろうべきぞ。何れもかようにこそは道を立てたき事にて侍るに、今まで、わらわが頼みたりし浄土宗、其の外何れも仏法には扶け手の、扶かり物のなど、云うわけ(=訳)は云わで、万法唯心(=あらゆる存在は一心に収められる)とばかり云い、死しては何者が、いずくへ行くぞと問えば、西方十万憶土の浄土に往生すると云うかとすれば、又「極楽は此(=ここ)を去ること遠からず」などと云いて、更に搦(=らつし:秩序)もなき事のみを申されそうろうに、今の如くに先ず、次第を立て玉うばかりも有り難く侍るに、其れを一つ一つ聞きまいらせば、余念(=他の考え?)、主を何と知りそうろうべきぞ。  

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