幽貞。惣じて物には虚実の二つがある習いにてろうらえば、この現当(=現在と将来)二世の主と申すにも、偽れる所と真の主との隔てをよくわきまえ玉うべき事肝要にて侍り。上に申しつる仏神などのつれ(=類・種類)は、是皆偽りにて二世のねがいを成就すべき者にはあらざること、今まで聞き玉いし其の教えにて明かに知れそうろう。其の故は仏法の極めは空に帰し、仏と云うも空也。又、神道の奥そ(=奥底)は陰陽なれば、神と云うは又陰陽を差して云えり。去れば、空は直に無にして、なき物なれば、仏と云えばとてとうとからず。主とも何も、云うに足らぬ事にて侍るぞ。又陰陽と云うは、我が宗には是をマテリヤヒリマ(materia prima:第一質料)と云いて、真の主にて在ます我が宗のDs(Deus:デウス)よ、万の物の下地に作り置き玉える物にして、其の性は、無心無智の物なり。然るを知らずして是を神と名付け、万物[]主とあおぐは迷いの至りにてそうろう。又死したる人をとらえ、或いは尺迦(=釈迦)、或いは八幡などと云うつれ(=類・種類)の事、是又、共にはかる(=論じる)に足らず。真の主と申すは、キリシタンに教えらるるDs御一体より外にはなき事にてそうろう。さて此のDsと申すは如何なる主にてわたらせ(=亘らせ:あられ)玉うぞと申せば、天地万像の御作者のおとにて侍り。去れば、此の天地万像には、万ずの善、万の徳の備わり玉う作者一体が在ます叶わぬ(=在まさずして叶わぬ)と云う理をさえ分別し玉えば、其れ即ち、真の主にてわたらせ玉うDsをわきまえ玉ことにてそうろう。去れば、ありとせあらうる物、色形ちの備われるは、其の初めなくて叶わず。初めあれば又、他の力によらずして身ずから初まる事叶わず。喩えば、此の家も色形ちあれば、いつとなく昔よりありし物には非ず。此の家と成りし初めあり。其の初る所は、又身ずからなれざれば、大なる巧み(=大工)の力によれる事は、明かにそうろう。但し茲に又、人()有りて此の家に初めはあれども、自然天然と作者もなく出で来たりと云い、或いはまた、此の家の初めは木竹が独りより合いて出で来たりなどと云わば、此れは事実なるべきや。是をもってはかりそうろうに、天地万像も同じ作者の巧(=たくみ:工夫)によらずんば、如何でか出で来すべきや。但し、天地は虚空に自然と出来、万像も陰陽の身ずから和合してかようになると云わば、其れこそ今喩えに申したる、此の家を虚空に出来たりと云い、或いは木竹のおのれとより合いて、垣[]も壁ともなれりと云えるよりも、尚おかしき事にて侍るべし。

 妙秀。誠に仰せそうろう所は、理りにて侍り。去り乍ら、疎(=おろか)なる上よりは茲に不審がそうろう。今、壁(=譬)に宣いし家などのようなる物は、丈尺方寸(=寸法)もある事なれば、作るとみえる事も成る事(=当然の事)にてそうろうが、此の量りも、ほとり(=畔:縁・際限)もなき天地をば、何と作ると云うことの叶いそうらわんや。

 幽貞。御不審の通り、聞きまいらせぬ道理のみにもかぎらず。此の天地開闢と云える事は、いずくの国にも沙汰する事にてそうらえば、初めあるべしとは、はや自(=おの)ずから心ろある程の者は思えども、何と初まりたると云う事を知らぬが故に、此所(=ここ:現在)に至りては、思い思いに云えり。然れば今、御身の不審にも量りもほとり(=畔)もなき天地なれば、作者はあるまじきと宣えば、先ず、其の分にもし玉え(=先ず一応はその通りだとなさって下さい)。さらば作者なしに、何と此の天地は出来るべきと思うとある理を云いて見玉え。作者なしにも此の天地の出来(=しゅつらい)[]べき道理あらば、六ケ敷(=むずかしき)わらわも其の宗に成りそうろうべし。

 妙秀。いや、道理とて別に思いはかる事はそうらわねども、唯かように広大なる天地なれば、作者はありそうにもなきとの申し事にて侍り。

 幽貞。道理をば、わきまえねども、唯、仏者(=作者)はありそうにもなしとばかりは、私なる(=自分勝手な)事にてそうろう。先ず、よく聞き玉え。此方(=こなた)には、此の天地の広大なるを以って、尚々、作者なくて叶わぬとは申しそうろう。其の故は、何にても独り出で来る事は叶い侍らず。大にして六ケ敷(=難しき)物よりも、小さくたやすきは、尚、独り出で来る事は、やすかるべし。喩えば、家と行燈(=あんどん)は、何れが独り出で来るべきとならば、行燈は家よりも尚、独り出で来るにやすかるべし。然るに、此のやすき行燈さえも独りは(=独りでは)出来ぬ物ならば、如何にいわんや、家に於いてをや。家には立てぬ木(=経緯:縦と横の木)の柱を先として、けた(=桁)、うつばり(=梁)、上には棟木(=むなぎ)、下には礎へ(いしずえ)を初めとして、しとみ(=蔀:上下に上げ下げする窓)、やりと(=遣戸:ひきど)に至るまで、色々六ケ敷ききりくみ(=切組:切り込み)、さし合わせ(=組み合わせ)の品々ありと云えども、是を天地の巧みにくらぶれば、又家は行灯のたくらべ(=比較)にも及ばねば云うにたらねども、其れさえも独りは出来る事は叶わねば、ましてや天地に於いてをや。見玉え。天には月日星の三つの光、いよやかにして(=キラリと、紛れもなく)、日はひるをてらし、月は夜をてらす。先ず、月の体に取りても、有る時はかけ、或る時はみつる其のさまは、昔より今に違わず。西に入り、東に出る日の光は、よるひるの境、時をあやまたぬ。三十日(=みそか)を積もりて(=経て)月をなし、十に二つの月を重ねては年を向かう(=迎う)るに、四つの時(=四季)は違わず。春夏秋冬と移り替われば、地には草木の色々が、花を飛び(=花を咲かせ)、葉おち(=落葉し)、露、ゆき、霜が来る有りさまは、いにしえより渡り今に渡って違わざるをば、キリシタンの教えには、(それは)天地の間の矩(=のり:規則)ぞと、是を示されそうろう。矩と云うは、独り立つ物に非ず。下に万機の(=諸々の)政の行わるるは、上に万乗の君の在ます故也。天地の間に、四時八節(=四季と立春・春分・立夏・夏至・立秋・秋分・立冬・冬至)の時をたがへぬは、天地の作者、真の主一体が、在ますが為なり。是等の理ばかりにても、真の主キリシタンのDsをば知るにかたからずと云えども、尚、近く身の上に取って見玉え。目口耳鼻を先として(=はじめ)、五体六根の備わりて、かように生まれ出る事は、父も其の故を知らず、母も謂れをわきまえず。本より吾が力にもあらざれば、此の計らい手が、などかなくて侍らん。さて又、いける(=生ける)かぎりの栄辱、貧福、曾て心ろに任せず、妖寿(=寿命の長短)も又思うままならず。惣じて人の上を案じそうろうに、いずくよりとは見えねども、傀儡(=人形遣い)の人形に糸を付け、立ち居振る舞いを、あやつるに異ならず。人によて、昨日までは富栄え、世を蓋い(=おおい:威勢が知られる)功をなすと見えども、今日は引き易(=ひきかえ)、身の置き所もなく也、人によては、又疲馬(=ひば)の塵をおい(=痩せ馬の立てる塵を追うほど落ちぶれ)、路頭に袖をひろげぬ(=物乞いをする)計り(=ばかり)なりしも、時に逢いては忽ちに富貴の家となり、栄花を究め、司位(=つかさくらい)に進み、天上の仙席(=殿上の仙籍:清涼殿の席)を赦さるるまでの身となる人もあり。去れば、かようの転変、是が智恵に勝り、是が才覚の劣りたりと云う謂れにしも非ず。其の故は、賢なるがおとろえ(=衰え)、愚なるがさかうる(=栄うる)も多ければ、此の運命をつかさどり玉う主一体がまします事は、明かにそうろぞ。キリシタンの唱えには、此の主の名号(=みょうごう:仏に付ける名)Dsと申し奉りて、現世安寧、後生善所のねがいをば、皆是へ掛け奉る事にて侍り。然るに何事も、自然天然にして、誰がなす態(=わざ:業)にも非ずと悟りだてを云う(=悟ったような振りをする)仏法などは、甚だしき迷いにてろうらわずや。神道には、なまじいに神と云う物を立て、運命を祈ると云えども、是は又、上に申しつるが如くなれば、魚の目を取りて玉と云うよりも、尚違いたる(=間違った)事にて侍れば、真の主を知れる物に非ず。去れば今、わらわが宗、キリシタンよりは、此の魚の目を捨て、無価(=むげ:値の付けられない)宝珠に比し奉る真の主Dsを敬い貴び奉れとの事にて侍り。

 

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